楽仙樓の歴史⑤「下鴨楽仙樓」

楽仙樓の歴史⑤「下鴨楽仙樓」

三原伸子 によって に投稿されました

店舗も手づくりで


中国にいたときにつくっていた餃子を、日本に来てからもつくり続けていた母。近所や私の通っていた小学校でふるまうようになって、ファンが増えていき、1994年、店を出すまでになりました。場所は、京都の下鴨で、店の名前は「楽仙樓」。「お客様は仙人のように貴重で得難い人物。その方たちに私たちの店で楽しんで頂く場所」という思いを込めて、父がつけたものです。


そのとき私は19歳。京都で高校を卒業し、中国語を学ぶために専門学校に通っていたころでした。私が両親と一緒に日本に来たのは4歳のときですから、中国語は親が話していた基本的なことしか知りません。というより、小中学校のころは、いじめられるのが嫌で、中国人であることは隠し、中国語を話すことはありませんでした。でも、そのまま中国語を忘れてしまうのは、もったいない。そう思って、改めて勉強を始めたのです。


私は、専門学校に通いながらも、いくつかかけもちしていたアルバイトをやめ、店のオープンにあたって餃子の仕込みを手伝ったり、ホール担当として働いたり、何役もこなしました。母と一緒にメニューを考えて、値段をつけて、お品書きは手書きで10枚以上描いたりもしました。

 

2001年1月10日号「AMUSE」


また、開店当時から、持ち帰り用の窓口をつくり、冷凍した餃子の販売も始めることにしました。テイクアウトメニューをつくるのはもちろん、窓口の装飾も手作りです。

 

下鴨楽仙樓外観

1994年当時、冷凍のテイクアウトを始めたのは、かなり早かったほうだと思いますが、京都ではすでに、テイクアウトのひとくち餃子が定着していたので、受け入れられる土壌はできていました。ただ、楽仙樓は水餃子だけで、それも冷凍のみ。というのも、母の手づくり餃子の特徴でもあるもちもちした皮と、素材の食感が生きるように野菜や具材の水分もそのまま使っている餡は、包んですぐに冷凍するほかに、食感とおいしさを保つ方法がないのです。焼き餃子であれば、市販の皮を使ったり、焼いたものを店頭に置いておくこともできますが、水餃子はそういうわけにはいかないのです。


水餃子以外はゼロからのスタート

 

開店にあたって、ひとつの大きな問題がありました。母の餃子は確かにおいしいけれど、日本ではまだ一般的でない水餃子だけに、これだけではさすがに難しいだろう。料理も店の経営もやったことのない私ですが、それだけははっきりとわかりました。そこで、水餃子をメインとしてやりつつ、ほかの中国北方料理も提供していってはどうだろうか、と思いたったのです。


ところが、やってはみたものの、水餃子以外未経験の母ですから、どうもうまくいきません。上手くできたとしても味が安定しなかったり、提供するのに時間がかかったりで、お客さんに迷惑をかけてばかり。


困っていた私たちに協力してくれたのは、このときも近所の方々でした。向かいのスーパーの奥さん、隣のお肉屋さんのご主人、商店街のお花屋さん…、みんながいろんな意見をくれるのです。味をもっとこうしたらいいんじゃないか。段取りはこうしたらよくなる。それを聞き入れながら、少しずつ改善していく素直さは、やっぱり母のいいところ。


その上、見かねた父も厨房に入って、かつて経験した料理人としての知識と腕を総動員して、料理づくりを手伝いました。どうやら、水餃子以外は父のほうが腕がよかったようです。当時、会社員として働いていた父は、開店に合わせて会社を休み、1か月間母と料理をつくり続けました。


母は父がつくる何種類もの料理を1か月ですべて覚えて、レパートリーを増やしていき…。体が覚えれば、短時間でつくれるようになり、味のレベルも安定するものです。どうやら母は、「見て覚える」のは得意なようでした。


同時に、1か月間、十分に寝ることも休むこともなく料理をつくり続けた父の体に、異変が起こっていました。かねてから患っていた痔が悪化し、入院することになったのです。


となれば、母ひとりで「見て覚える」特技を生かして、あとはなんとかやるしかありません。その特技が特に生かされたのは、新メニューとしてつくった天津丼や中華丼でした。こうした丼ものは、中国にはなくて日本独自のものですから、中国で料理人をしていた父のレパートリーにはありません。でも、母が日本に来てからアルバイトで働いた京都の中華料理店には、ありました。母の仕事は皿洗いがメインでしたから、料理はしませんが、シェフの料理を横目で見ながら、使う材料や手順を覚えていたのです。見よう見まねでつくった天津丼は大成功。その後、店の人気メニューにもなりました。

 

父の昔の経験と、母のがんばりで、楽仙樓のメニューはたちまち増えていきました。おいしいと言ってくれるお客さんも増えてきました。ただ、家賃を払って、仕入れをして、お店に必要な経費を差し引けば、赤字の連続。母と私がくたくたになるまで1日中働いても、事態は変わりません。何が悪いのか、何を改善したらいいのかも、わからないまま、月日は過ぎていきました。

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楽仙樓の歴史⑧「自分の手で店を再起」
楽仙樓の歴史

楽仙樓の歴史⑧「自分の手で店を再起」

投稿者 三原伸子

店を継ぐ決意 楽仙樓を手伝いつつも、私が会社員として働いていたの期間は10年間ほどありました。その間に母の入院があり、療養期間があり、その間は姉や夫も手伝い、アルバイトも含め4人ほどで店を回していました。ただ、人手がかかる割には、母がやっていたときほど売り上げは上がりません。   外食に関しては素人同然だった夫でさえ、「このままやったらお母さんの店、つぶれてしまうで」「あの餃子の味を途絶えさせていいんか」と心配し始めました。そう言われると、ここまでの母の頑張りを無にしてしまうことはできません。支えてくれた母の餃子ファンにも申し訳ないし、本当はまだ続けたい母の思いにも反してしまいます。かつては母に結婚を反対され、うちの商売とは一切関係のなかった夫の言葉で、まさか店の運命が変わるとは。   そのころ、こんな出来事もありました。2007年、中国から甥っ子(正確には、母の腹違いの弟の息子)を呼び寄せ、料理人として雇い、京都郊外の六地蔵に新しい店をオープンしたのです。母が中国・北京で手術入院をしていたとき、腹違いの弟がハルビンから駆けつけ、1カ月付き添って看病してくれたそうで、その息子を呼び寄せることは、あのときの恩返しの意味もあったのでしょう。甥はしばらく中国で料理修行をしてから来日し、その後楽仙樓で母のもと働いていました。その間に、六地蔵に居抜きの物件があると聞いた母が、そこで新店をオープンし、甥に任せることにしたのです。が、ことは思ったほどはうまくいきませんでした。   六地蔵店 2007年5月号「C.F」   オープンしてから甥の新店を見に行くと、楽仙樓の面影はなく、私たちがこだわっていた店内のセンスも、踏襲されることはありませんでした。私と主人はいてもたってもいられなくなって、飾り棚を手作りし、テーブルクロスを縫いビニールシートをかぶせて、なんとか体裁をつくろいましたが…。立地の難しさもあり、3年たたないうちに閉店することになりました。いったんは中国に戻ったものの、今はまた私のもとで働いています。 まだあった300万円の借金   転換期が訪れていることを感じ、私は会社員を辞める決意を固め、母の後を継ぐことを決めました。四条に店が移転してから7年後、2010年9月のことでした。私は35歳、母は62歳でした。本当はもう引退を考えてもいい年齢にもかかわらず、療養後の母はもう一度餃子づくりに復帰、また以前のようにすべての料理をつくるようになりました。 店を継ぎ、本格的に働き始めてみると、愕然とすることばかり。「終わってる…」と思いました。   客席のテーブルは油でべたべた。せっかくのテラス席もぼろぼろで誰も座れない状態です。厨房の床は油まみれで、滑って転ばないように歩くだけで精いっぱい。冷蔵庫も冷凍庫もパンパンで、何がどこにあるかわかりません。ちょっと中を見れば、賞味期限が切れている材料もたくさん詰まっている。   こんな店で食べたくないし、働きたくない。何から、どうやって片付けていくか、途方に暮れてしまいました。さらに、母は売り上げを計算することまで手が回っていなかったこともわかりました。それも仕方ありません。すべての料理、すべての餃子を手づくりするのに精一杯で、お金のことを気にする余裕すらなかったのです。   いっときはすべて返済した借金も、いつの間にかまた300万円ほどにふくらんでいました。それを知ったときは愕然としましたが、ここで背中を押してくれたのも、夫でした。   「いろいろ考えても仕方ない。俺の貯金で300万円返したろ」   ひとつひとつ磨き上げる 夫の協力で借金を返し、日々の売り上げの中から少しずつ店の改修に費用を回しながら、「食べたくない」「働きたくない」店を、なんとか元の「食べたくなる」店に戻していく挑戦が始まりました。お金のかかる大規模な修理はできません。私たちにできるのは、「自分たちの手で」少しずつきれいにしていくことだけ。...

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楽仙樓の歴史⑦「学生結婚と夫の決意」
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投稿者 三原伸子

結婚に大反対だった母 下鴨から四条に店舗を移し、商売がうまく回り出したかと思ったところで、母の手術。中国に渡って腹水を抜く手術をして、幸い成功したものの、帰国後も闘病生活を送り、1年半ほどお店に出ることができませんでした。姉が料理人を雇って、なんとか店を回してくれましたが、母にしてみれば。せっかくここまでやってきたのに…と、どれほど悔しかったことでしょう。ずっと隣で見てきた私も、もちろん同じ気持ちです。でも、この時点ではまだ、私はお店を継ぐ決意はできていませんでした。 ここで少し、私の話をさせてください。 早くから母の店を手伝いながらも、両親の母国である中国の言葉をきちんと勉強したいという思いがあり、20歳のとき(1996年)から5年にわたって中国に留学しました。はじめは遼寧省の瀋陽で学び、その後大学に合格して4年間北京で過ごしました。予定外だったのは、留学先で出会った韓国籍の男性と学生結婚し、留学中に子どもを授かったことでした。本当はもっと長く中国にいたかったけれど、1998年に出産のため日本に帰国。地元・京都で娘を出産しました。 ちなみに、この結婚に母は初めから大反対。私が絶対に苦労するからといって激怒して、留学先の北京まで押しかけて来そうな勢いでした。一方、義父のほうは手がけていたビジネスで韓国と中国を行き来し、留学中の私もそれを手伝ったりして関係は良好でした。母がどうやって結婚を許したかというと、それは「子どもができた」から。中国から母に妊娠を告げようと電話をしたとき、意外にも「生むしかないんやろ」という穏やかな反応。やはり、孫ができるということは、何にも代えられない喜びなのでしょう。激怒されるのを覚悟で電話をした私は、母の態度の急変に、拍子抜けしてしまったほどでした。 子どものことを隠したまま就職 まだお店の収益は安定していなかったころですから、出産後の私は企業に就職する道を選びました。小さな子どもを育てながらの就職活動は、まだ不利になることが多かったころ。私は子持ちであることを隠して面接を受け、合格したあともしばらく隠して働き続けていました。 当時、京都の自宅から大阪まで1時間以上かけて通い、娘のお迎えは会社勤めの父が帰りに行ってくれました。私が帰るのは夜遅くなで、娘はいつもお店の2階で遊んでいたものです。お店を気にかけながらも、娘がまだ小さくても、私がフルタイムで働きたかったのは、お店の売り上げを補填することもありましたが、そのときまだ学生だった夫を扶養するためでもありました。 私との結婚、そして日本帰国によって、初めて日本に住むことになった夫。それは、韓国で学んだことも、ドイツや中国に留学して学んだことも、すべて手放し、日本で一からスタートするということでした。長年かけて、世界で通用する語学力と知識を蓄積してきても、それらが通用しない未知の日本で、私や私の家族と共に暮らすことは、大きな覚悟がいること。私の都合で人生プランがガラリと変わり、縁のなかった日本で人生を終えるところまで決意してくれた夫に、私のできることはやって支えたい。そのためにも、私が安定した企業でしっかりと収入を得ておくことは必要なことでした。 私の両親がいる京都で、夫はまず日本語学校で学ぶことから始めました。週2日学校に通い、ほかの日は楽仙樓を手伝うように。日本語を覚えるのは早かったし、このころにはすっかり母と打ち解けて。語学学校を卒業してからは、日本の大学に2年間通い、学位も取得。根っからの「勉強好き」なのです。

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