楽仙樓の歴史④「お店を持つ決意」

楽仙樓の歴史④「お店を持つ決意」

三原伸子 によって に投稿されました

おいしい餃子のちから


母の手づくり餃子は、団地内でも、私たちが通っていた小学校でも、どんどん人気を集めていきました。キャベツの代わりに白菜を使っているのでシャキッとした食感があり、ひき肉、すり潰したエビと生姜がたっぷり、そして醤油やごま油で味付けを。ニンニクを使わないので、餡(あん)に使う素材の味が生きているというのも特徴です。弾力のある皮は、水と薄力粉の配合具合がカギですが、それは体で覚えた母だけの技です。


日本人からは「こんなにおいしい餃子、はじめて食べた」と言われ、中国からの帰国者たちは「懐かしい」と喜んでくれました。


その一方、職場では中国人であることで偏見をもたれたり、人づきあいがうまくいかないことなど、母なりに落ち込むこともあったようです。繊細なところがある母は、ひと一倍、人の気持ちを感じ取ってしまうようです。私だって、元気で明るい性格ではあるけれど、偏見や仲間はずれにあうことも、よくありました。でも、それはそれで仕方ない。子ども心に私はそう思っていました。仲良くすることを相手に強要したとしても、関係は築けません。だから、私たちは私たちができることを、粛々と続けていくだけ。そのひとつが、得意の餃子をつくってふるまうことだったのです。気持ちを伝えるための餃子ですから、お金はいただきません。母の餃子は、コミュニケーションツールであると同時に、自己防衛でもあったのす。


はじめてのお客さま


そのころ、その後につながる大きな出会いがありました。母の餃子を気に入ったある台湾出身のご家族に、「必要なときに餃子づくりを頼みたい。お金を払うから」と提案されました。さらには買いたい人を募り、とりまとめて、まとめて発注をしてくれるまでになりました。こうして、母にとって初めての「商売」が始まりました。


さらには、「お店を始めてみたら」とも言われたそうですが、そのときはまだ、自分が店をもつなんて、思ってもみなかった母。経営の知識はもちろん、なによりその資金がまったくありませんでしたから。銀行からお金を借りるほどの信用も、まだありませんでした。


でも、いつかは。母の中に、はじめて大きな夢が芽生えたのです。


中国残留孤児の結束力


思えば、我が家をはじめ、どの家庭も、中国残留孤児であるがゆえに、肩身の狭い思いをしてきたことは事実です。一方で、中国残留孤児だからこその強い横のつながりは、私たちの誇れる部分です。この「つながり」が、母の開業を後押ししてくれました。同じ団地に住む、母の「餃子ファン」の仲間たちが1000万円を集め、「開業資金」として母に貸してくれたのです。


中国から日本に来て、命懸けで働き、家族を養い、先の見えない将来を考え生活を切り詰めながら貯金をしてきたのは、どの家庭も同じです。私たち家族はまだ恵まれていたほうで、ここまでの苦労は、どの家庭も想像を絶するものがあったはずです。そうやって貯めてきたお金から、数百万円ずつを出し合って、母の開業資金として使って欲しいと差し出してくれたのです。その中には、お客さん第一号の台湾のご家族も入っていました。


我が家には担保もなにもないし、いつ返済できるかの見通しもありません。それでも、「返すのはいつでもいいから」と。そんなありがたすぎる提案を受けて、母の気持ちはかたまりました。協力してくれた仲間のために、餃子を食べたいと言ってくれる人のために、お店を始めよう。1994年、母が46歳、私が19歳のときでした。

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楽仙樓の歴史⑧「自分の手で店を再起」
楽仙樓の歴史

楽仙樓の歴史⑧「自分の手で店を再起」

投稿者 三原伸子

店を継ぐ決意 楽仙樓を手伝いつつも、私が会社員として働いていたの期間は10年間ほどありました。その間に母の入院があり、療養期間があり、その間は姉や夫も手伝い、アルバイトも含め4人ほどで店を回していました。ただ、人手がかかる割には、母がやっていたときほど売り上げは上がりません。   外食に関しては素人同然だった夫でさえ、「このままやったらお母さんの店、つぶれてしまうで」「あの餃子の味を途絶えさせていいんか」と心配し始めました。そう言われると、ここまでの母の頑張りを無にしてしまうことはできません。支えてくれた母の餃子ファンにも申し訳ないし、本当はまだ続けたい母の思いにも反してしまいます。かつては母に結婚を反対され、うちの商売とは一切関係のなかった夫の言葉で、まさか店の運命が変わるとは。   そのころ、こんな出来事もありました。2007年、中国から甥っ子(正確には、母の腹違いの弟の息子)を呼び寄せ、料理人として雇い、京都郊外の六地蔵に新しい店をオープンしたのです。母が中国・北京で手術入院をしていたとき、腹違いの弟がハルビンから駆けつけ、1カ月付き添って看病してくれたそうで、その息子を呼び寄せることは、あのときの恩返しの意味もあったのでしょう。甥はしばらく中国で料理修行をしてから来日し、その後楽仙樓で母のもと働いていました。その間に、六地蔵に居抜きの物件があると聞いた母が、そこで新店をオープンし、甥に任せることにしたのです。が、ことは思ったほどはうまくいきませんでした。   六地蔵店 2007年5月号「C.F」   オープンしてから甥の新店を見に行くと、楽仙樓の面影はなく、私たちがこだわっていた店内のセンスも、踏襲されることはありませんでした。私と主人はいてもたってもいられなくなって、飾り棚を手作りし、テーブルクロスを縫いビニールシートをかぶせて、なんとか体裁をつくろいましたが…。立地の難しさもあり、3年たたないうちに閉店することになりました。いったんは中国に戻ったものの、今はまた私のもとで働いています。 まだあった300万円の借金   転換期が訪れていることを感じ、私は会社員を辞める決意を固め、母の後を継ぐことを決めました。四条に店が移転してから7年後、2010年9月のことでした。私は35歳、母は62歳でした。本当はもう引退を考えてもいい年齢にもかかわらず、療養後の母はもう一度餃子づくりに復帰、また以前のようにすべての料理をつくるようになりました。 店を継ぎ、本格的に働き始めてみると、愕然とすることばかり。「終わってる…」と思いました。   客席のテーブルは油でべたべた。せっかくのテラス席もぼろぼろで誰も座れない状態です。厨房の床は油まみれで、滑って転ばないように歩くだけで精いっぱい。冷蔵庫も冷凍庫もパンパンで、何がどこにあるかわかりません。ちょっと中を見れば、賞味期限が切れている材料もたくさん詰まっている。   こんな店で食べたくないし、働きたくない。何から、どうやって片付けていくか、途方に暮れてしまいました。さらに、母は売り上げを計算することまで手が回っていなかったこともわかりました。それも仕方ありません。すべての料理、すべての餃子を手づくりするのに精一杯で、お金のことを気にする余裕すらなかったのです。   いっときはすべて返済した借金も、いつの間にかまた300万円ほどにふくらんでいました。それを知ったときは愕然としましたが、ここで背中を押してくれたのも、夫でした。   「いろいろ考えても仕方ない。俺の貯金で300万円返したろ」   ひとつひとつ磨き上げる 夫の協力で借金を返し、日々の売り上げの中から少しずつ店の改修に費用を回しながら、「食べたくない」「働きたくない」店を、なんとか元の「食べたくなる」店に戻していく挑戦が始まりました。お金のかかる大規模な修理はできません。私たちにできるのは、「自分たちの手で」少しずつきれいにしていくことだけ。...

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楽仙樓の歴史⑦「学生結婚と夫の決意」
楽仙樓の歴史

楽仙樓の歴史⑦「学生結婚と夫の決意」

投稿者 三原伸子

結婚に大反対だった母 下鴨から四条に店舗を移し、商売がうまく回り出したかと思ったところで、母の手術。中国に渡って腹水を抜く手術をして、幸い成功したものの、帰国後も闘病生活を送り、1年半ほどお店に出ることができませんでした。姉が料理人を雇って、なんとか店を回してくれましたが、母にしてみれば。せっかくここまでやってきたのに…と、どれほど悔しかったことでしょう。ずっと隣で見てきた私も、もちろん同じ気持ちです。でも、この時点ではまだ、私はお店を継ぐ決意はできていませんでした。 ここで少し、私の話をさせてください。 早くから母の店を手伝いながらも、両親の母国である中国の言葉をきちんと勉強したいという思いがあり、20歳のとき(1996年)から5年にわたって中国に留学しました。はじめは遼寧省の瀋陽で学び、その後大学に合格して4年間北京で過ごしました。予定外だったのは、留学先で出会った韓国籍の男性と学生結婚し、留学中に子どもを授かったことでした。本当はもっと長く中国にいたかったけれど、1998年に出産のため日本に帰国。地元・京都で娘を出産しました。 ちなみに、この結婚に母は初めから大反対。私が絶対に苦労するからといって激怒して、留学先の北京まで押しかけて来そうな勢いでした。一方、義父のほうは手がけていたビジネスで韓国と中国を行き来し、留学中の私もそれを手伝ったりして関係は良好でした。母がどうやって結婚を許したかというと、それは「子どもができた」から。中国から母に妊娠を告げようと電話をしたとき、意外にも「生むしかないんやろ」という穏やかな反応。やはり、孫ができるということは、何にも代えられない喜びなのでしょう。激怒されるのを覚悟で電話をした私は、母の態度の急変に、拍子抜けしてしまったほどでした。 子どものことを隠したまま就職 まだお店の収益は安定していなかったころですから、出産後の私は企業に就職する道を選びました。小さな子どもを育てながらの就職活動は、まだ不利になることが多かったころ。私は子持ちであることを隠して面接を受け、合格したあともしばらく隠して働き続けていました。 当時、京都の自宅から大阪まで1時間以上かけて通い、娘のお迎えは会社勤めの父が帰りに行ってくれました。私が帰るのは夜遅くなで、娘はいつもお店の2階で遊んでいたものです。お店を気にかけながらも、娘がまだ小さくても、私がフルタイムで働きたかったのは、お店の売り上げを補填することもありましたが、そのときまだ学生だった夫を扶養するためでもありました。 私との結婚、そして日本帰国によって、初めて日本に住むことになった夫。それは、韓国で学んだことも、ドイツや中国に留学して学んだことも、すべて手放し、日本で一からスタートするということでした。長年かけて、世界で通用する語学力と知識を蓄積してきても、それらが通用しない未知の日本で、私や私の家族と共に暮らすことは、大きな覚悟がいること。私の都合で人生プランがガラリと変わり、縁のなかった日本で人生を終えるところまで決意してくれた夫に、私のできることはやって支えたい。そのためにも、私が安定した企業でしっかりと収入を得ておくことは必要なことでした。 私の両親がいる京都で、夫はまず日本語学校で学ぶことから始めました。週2日学校に通い、ほかの日は楽仙樓を手伝うように。日本語を覚えるのは早かったし、このころにはすっかり母と打ち解けて。語学学校を卒業してからは、日本の大学に2年間通い、学位も取得。根っからの「勉強好き」なのです。

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