おいしい餃子のちから
母の手づくり餃子は、団地内でも、私たちが通っていた小学校でも、どんどん人気を集めていきました。キャベツの代わりに白菜を使っているのでシャキッとした食感があり、ひき肉、すり潰したエビと生姜がたっぷり、そして醤油やごま油で味付けを。ニンニクを使わないので、餡(あん)に使う素材の味が生きているというのも特徴です。弾力のある皮は、水と薄力粉の配合具合がカギですが、それは体で覚えた母だけの技です。
日本人からは「こんなにおいしい餃子、はじめて食べた」と言われ、中国からの帰国者たちは「懐かしい」と喜んでくれました。
その一方、職場では中国人であることで偏見をもたれたり、人づきあいがうまくいかないことなど、母なりに落ち込むこともあったようです。繊細なところがある母は、ひと一倍、人の気持ちを感じ取ってしまうようです。私だって、元気で明るい性格ではあるけれど、偏見や仲間はずれにあうことも、よくありました。でも、それはそれで仕方ない。子ども心に私はそう思っていました。仲良くすることを相手に強要したとしても、関係は築けません。だから、私たちは私たちができることを、粛々と続けていくだけ。そのひとつが、得意の餃子をつくってふるまうことだったのです。気持ちを伝えるための餃子ですから、お金はいただきません。母の餃子は、コミュニケーションツールであると同時に、自己防衛でもあったのす。
はじめてのお客さま
そのころ、その後につながる大きな出会いがありました。母の餃子を気に入ったある台湾出身のご家族に、「必要なときに餃子づくりを頼みたい。お金を払うから」と提案されました。さらには買いたい人を募り、とりまとめて、まとめて発注をしてくれるまでになりました。こうして、母にとって初めての「商売」が始まりました。
さらには、「お店を始めてみたら」とも言われたそうですが、そのときはまだ、自分が店をもつなんて、思ってもみなかった母。経営の知識はもちろん、なによりその資金がまったくありませんでしたから。銀行からお金を借りるほどの信用も、まだありませんでした。
でも、いつかは。母の中に、はじめて大きな夢が芽生えたのです。
中国残留孤児の結束力
思えば、我が家をはじめ、どの家庭も、中国残留孤児であるがゆえに、肩身の狭い思いをしてきたことは事実です。一方で、中国残留孤児だからこその強い横のつながりは、私たちの誇れる部分です。この「つながり」が、母の開業を後押ししてくれました。同じ団地に住む、母の「餃子ファン」の仲間たちが1000万円を集め、「開業資金」として母に貸してくれたのです。
中国から日本に来て、命懸けで働き、家族を養い、先の見えない将来を考え生活を切り詰めながら貯金をしてきたのは、どの家庭も同じです。私たち家族はまだ恵まれていたほうで、ここまでの苦労は、どの家庭も想像を絶するものがあったはずです。そうやって貯めてきたお金から、数百万円ずつを出し合って、母の開業資金として使って欲しいと差し出してくれたのです。その中には、お客さん第一号の台湾のご家族も入っていました。
我が家には担保もなにもないし、いつ返済できるかの見通しもありません。それでも、「返すのはいつでもいいから」と。そんなありがたすぎる提案を受けて、母の気持ちはかたまりました。協力してくれた仲間のために、餃子を食べたいと言ってくれる人のために、お店を始めよう。1994年、母が46歳、私が19歳のときでした。