楽仙樓の歴史⑦「学生結婚と夫の決意」

楽仙樓の歴史⑦「学生結婚と夫の決意」

三原伸子 によって に投稿されました

結婚に大反対だった母


下鴨から四条に店舗を移し、商売がうまく回り出したかと思ったところで、母の手術。中国に渡って腹水を抜く手術をして、幸い成功したものの、帰国後も闘病生活を送り、1年半ほどお店に出ることができませんでした。姉が料理人を雇って、なんとか店を回してくれましたが、母にしてみれば。せっかくここまでやってきたのに…と、どれほど悔しかったことでしょう。ずっと隣で見てきた私も、もちろん同じ気持ちです。でも、この時点ではまだ、私はお店を継ぐ決意はできていませんでした。


ここで少し、私の話をさせてください。

早くから母の店を手伝いながらも、両親の母国である中国の言葉をきちんと勉強したいという思いがあり、20歳のとき(1996年)から5年にわたって中国に留学しました。はじめは遼寧省の瀋陽で学び、その後大学に合格して4年間北京で過ごしました。予定外だったのは、留学先で出会った韓国籍の男性と学生結婚し、留学中に子どもを授かったことでした。本当はもっと長く中国にいたかったけれど、1998年に出産のため日本に帰国。地元・京都で娘を出産しました。


ちなみに、この結婚に母は初めから大反対。私が絶対に苦労するからといって激怒して、留学先の北京まで押しかけて来そうな勢いでした。一方、父のほうは手がけていたビジネスで韓国と中国を行き来し、留学中の私もそれを手伝ったりして関係は良好でした。母がどうやって結婚を許したかというと、それは「子どもができた」から。中国から母に妊娠を告げようと電話をしたとき、意外にも「生むしかないんやろ」という穏やかな反応。やはり、孫ができるということは、何にも代えられない喜びなのでしょう。激怒されるのを覚悟で電話をした私は、母の態度の急変に、拍子抜けしてしまったほどでした。


子どものことを隠したまま就職


まだお店の収益は安定していなかったころですから、出産後の私は企業に就職する道を選びました。小さな子どもを育てながらの就職活動は、まだ不利になることが多かったころ。私は子持ちであることを隠して面接を受け、合格したあともしばらく隠して働き続けていました。


当時、京都の自宅から大阪まで1時間以上かけて通い、娘のお迎えは会社勤めの父が帰りに行ってくれました。私が帰るのは夜遅くなで、娘はいつもお店の2階で遊んでいたものです。お店を気にかけながらも、娘がまだ小さくても、私がフルタイムで働きたかったのは、お店の売り上げを補填することもありましたが、そのときまだ学生だった夫を扶養するためでもありました。


私との結婚、そして日本帰国によって、初めて日本に住むことになった夫。それは、韓国で学んだことも、ドイツや中国に留学して学んだことも、すべて手放し、日本で一からスタートするということでした。長年かけて、世界で通用する語学力と知識を蓄積してきても、それらが通用しない未知の日本で、私や私の家族と共に暮らすことは、大きな覚悟がいること。私の都合で人生プランがガラリと変わり、縁のなかった日本で人生を終えるところまで決意してくれた夫に、私のできることはやって支えたい。そのためにも、私が安定した企業でしっかりと収入を得ておくことは必要なことでした。


私の両親がいる京都で、夫はまず日本語学校で学ぶことから始めました。週2日学校に通い、ほかの日は楽仙樓を手伝うように。日本語を覚えるのは早かったし、このころにはすっかり母と打ち解けて。語学学校を卒業してからは、日本の大学に2年間通い、学位も取得。根っからの「勉強好き」なのです。

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楽仙樓の歴史⑪「母の骨折と閉店のピンチ」
楽仙樓の歴史

楽仙樓の歴史⑪「母の骨折と閉店のピンチ」

投稿者 三原伸子

育児との両立 2010年に店を継いでから、1年以上かけて汚れを落とし、効率化や「メニューの見直しをした結果、売り上げは順調に伸びていきました。来客も売り上げも、毎年「過去最高」を更新していきました。知人たちが貸してくれた母の手術代も、店の運転資金も、すべて返すことができて、なんとか通常運転ができるようになったのが、2018年でした。   その期間は、改めて店の基盤作りをしたときでしたが、私個人では、育児との両立で苦労した時期でもありました。   店を継ぐ前、まだ会社員との二足の草鞋でやっていたころ、両親や夫の力を借りて育児をしていたときも、もちろん大変でした。店を継いでからは、今まで母ができていなかった仕事――事務的な作業や仕入れなども私の業務として加わります。そのうえ、大阪の家から京都の店との行き来もあり、いつも時間に追われている感覚でした。私たち夫婦は、ふたりが会社員だったときにローンを組み、東大阪に家を建てていました。間取りから内装まで、こだわって作った家でしたが、子どもが増えて手狭になったこともあり、店を継いで3年後に、少しでも京都に近い枚方に別の家を購入しました。   私の1日は、子どもを学校に送っていくことから始まります。そのころ、ふたりめの子ども(息子)はまだ保育園児でした。その後、8時には車で東大阪の家を出て、店に向かう途中の業務スーパーで、野菜など買い出し。店に着いたらすぐ開店の準備をして、ランチタイムには店頭でサービスをしたり、お弁当を売ったりします。ランチタイムが終わったら、お金の管理や伝票の整理。仕入れ先とのやり取りをしたり、売り上げアップのための策を練ったり。17時には京都の店を出られれば早いほうで、帰り道も2時間運転をして、いつも着くのは19時ぎりぎりでした。   往復の時間は短縮したかったけれど、高速道路を使うようになったのは、お店が黒字になってからでした。それまでは、小さな出費でも抑えたかったのです。   料理人交代 店を継いで、なんとかうまく回るようになった2012年、今度はある出来事が起こりました。料理人として働いていた母が、テラスで転倒して怪我をしてしまったのです。   それはランチの準備中でした。すぐに病院に行くように言ったものの、「ランチタイムやから」そのまま働くと言い張ります。私はすぐにでも店を閉めたほうがいいと思ったのですが、母は聞きません。結局、その日のランチタイムは高めの椅子に腰をかけて、厨房の仕事を続けました。   夜になって、仕事を終えた父が迎えに来て、車で病院に連れて行ったところ、脚の付け根の骨折がわかり、それから1か月入院することに。病院に行くまでの時間、ものすごく痛かっただろうに、仕事に穴をあけてはならないと、ランチタイムを乗り切った母の精神力には、頭が上がりません。でも、母にしてみれば、痛みを堪えて仕事をするよりも、仕事を休むことのほうが、きっと辛いことなのでしょう。   店の料理を作る母が1か月も休むとなったら、もう店は閉めるしかないのか。もしかしたら楽仙樓は終わってしまうのか、と目の前は真っ暗になりました。それでも家賃は払わなければならないし、従業員の給料だってある。そして何よりお店の料理を楽しみにしてくれているお客様がいる。そう思うと、お店をやめるわけにはいかないと、すぐに思い直し、従業員を集めて対策会議をしました。そして、母が日本に来るときの手紙の一節を改めて思い出していました。   「一切の困難を克服する覚悟です」   今度は、私がその覚悟をする番です。さて、母が担当していた調理を誰が代わりにやるか。そこで手をあげてくれたのが、以前母と一緒に厨房で手伝ってくれたことのある女性でした。彼女の得意料理は点心でしたが、母の手伝いをしながら楽仙樓の料理を覚え、主なものは作ることができました。私たちほかのスタッフも、味の面では信頼を寄せていました。ただ、母のようなものすごいスピードでたくさんの料理をつくるのは難しい。そこで、ランチのメニュー数を絞ったり、効率よく作ることができる「チャーハンと水餃子」のセットを始めたりしたのです。これが、後のランチタイムの主力メニューになったことは、すでに紹介したとおりです。   そして、彼女の夫・賀さん――当時はまだ別のレストランで働いていました――が、後に母の跡を継いで、楽仙樓のメインの料理人となります。骨折の治療を終えて店に復帰した母でしたが、やはり以前と同じペースで働くことはできません。もちろん本人は、「大丈夫や」と言い続けるけれど、以前のように長時間厨房に立つのは辛そうです。それを見かねた私が、レストランで働いていたその料理人を引き抜き、店の主力として加わってもらったのです。...

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楽仙樓の歴史⑩「店舗の改革」
楽仙樓の歴史

楽仙樓の歴史⑩「店舗の改革」

投稿者 三原伸子

メニューを見直し 店のテラスがきれいになって、店内も厨房も明るく清潔になると、お客さまも入りやすくなったのか、店は活気を取り戻しました。これまでの常連さんに加え、店の前を通った人の目に止まって入って来たり、そこからさらに口コミで広がったりして、掃除の疲れも吹き飛ぶうれしさでした。お金をかけて大きなリニューアルをしたわけではないけれど、この場所で16年蓄積された汚れを落とし、自分たちの手でコツコツと磨き、新しい空気を吹き込めば、店も息を吹き返すのだとわかりました。   さらに、メニューをわかりやすく作り直して外から見えるようにしたり、店先でお弁当販売も始めました。このお弁当が周辺で働く人たちに大人気を博し、ランチタイムだけで1日80個ほど売れるようになったのです。   また、以前は「コース」というと母の「お任せ」で、その日によって作るものが変わっていました。常連さんならまだしも、新しいお客さんにとっては頼みにくい。そこで、内容の異なる2〜3種類のコースをつくり、内容も明確にメニューに提示することにしました。   ドリンクの種類も少なかったので、定番のドリンクのほかにカクテルなども増やして、お客さまの好みで選べるようにそろえました。ただ、カクテルとなるとカタカナのメニュー表記が多くなり、中国人のスタッフにしてみると読みにくい。漢字は読めてもカタカナはとても難関なのです。そこで、メニューにあるお酒ひとつずつに番号をつけ、注文時に間違えないようにしました。カクテルのレシピも、使うお酒を番号でわかるようにして、キッチンにあるお酒の瓶にも同じ番号をつけておけば、誰でも間違いなく作ることができます。   ドリンクが増えれば飲み放題のコースを作ることができますし、そうすると宴会として利用してくださるお客さまも増えます。宴会利用は、大きな売り上げアップにつながりました。   味へのこだわりと効率化 もちろん、味にもこだわりました。母がひとりで料理をこなしていたときは、ごはんを炊くのも料理の味つけも、長年の「勘」に頼っていました。それがうまくいく時があれば、いかない日もある。ましてや、別の人が代わりに作る日は、母とは違った味になってしまうこともある。   チャーハンの美味しさを決めるごはんは、母の「勘」ではなく、誰がやっても同じように美味しく炊けるように工夫しました。お米屋さんから納入してもらう時点で、これまでより小さい5キロ袋にしてもらい、それを一度に炊くことにして、水の量も決めておけば、毎回ブレることはありません。大袋で買っていたときのように、毎回計量する手間も省けます。   お米は、チャーハンに適したものをいくつも食べ比べて、その中から滋賀県産のキヌヒカリという品種を使っています。一般には美味しいとわれるコシヒカリなどは、粘りが強くてチャーハンには向かないので、炒めたときに程よくパラっとなるものが理想的なのです。   口コミサイトなどで「ご飯が美味しい」というコメントが増えていったのは、その後からです。   餃子の提供のかたちも、少しずつ変わっていきました。ランチのいちばん人気は「チャーハンと水餃子」のセットですが、それ以外のランチメニューにも名物の水餃子をつけていました。でも、忙しいランチタイムでは、提供する料理に合わせて、あらかじめ茹でておいた餃子を温め直すという方法を取らざるを得ません。食べるまでに少しでも時間が経つと、ふやけたり伸びたりして、美味しさは半減してしまいます。つるんとした餃子の皮が自慢の楽仙樓なのに、これでいいのか。長い間頭を悩ませていたことでしたが、中途半端なものを提供するくらいならと、「チャーハンと水餃子」セット以外は、セットに餃子をつけるのをやめました。その代わり、プラス160円(現在は250円)で茹でたての水餃子2個をオーダーできるようにしたのです。   ランチタイムは、4人がけのテーブルを2人ずつ×2つに変更するなどして、多くのお客様が入るように、さらにスタッフが動きやすくなるように、変更もしました。   こうしたすべての改革は、私の力だけではとうてい叶うことではなく、家族や従業員の協力はもちろん、かつて働いていた会社とのご縁も大きく働きました。...

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