楽仙樓の歴史①「一切の困難を克服する覚悟です」

楽仙樓の歴史①「一切の困難を克服する覚悟です」

三原伸子 によって に投稿されました

  1. 中国残留日本人孤児

 

三原家家系図

 


6人きょうだいのうち3人が日本に帰国

1994年8月1日、楽仙樓がオープンしました。そのときは、下鴨にあった小さな中華料理店でした。2024年8月1日でちょうど30年。この機会に、私たち家族と楽仙樓30年の歴史を書き残しておこうと思いたちました。


私の父は、中国残留日本人孤児です。ソ連が太平洋戦争に参戦した1945年、中国の北東部ハルビンの難民所で生まれました。当時6人の兄弟姉妹がいて、そのうち3人――13歳の長女、4歳の次女、そして産まれてわずか40日の末っ子(それが父です)――が中国人にそれぞれ預けられ、両親はそれ以外3人の息子を連れて日本に戻りました。残酷なようですが、全員が生き残るための苦渋の決断でした。その当時は、こうして兄弟姉妹や親子が生き別れになることは、珍しいことではありませんでした。


戦争の記憶が少しずつ癒やされてきた1972年の日中国交回復は、日本にとっても、私たち家族にとっても、大きな転換点となりました。


中国に残っていた長女(父の姉)が日本にいる父親(私の祖父)と文通による交流を再開し、1975年10月、とうとう永住帰国を果たしました。中国で暮らしてきた長女には中国人の夫がいましたが、一緒に来日するのを嫌がったため、離婚し、3人の子どものうちひとりだけを連れて帰国することに。ここでもまた、新たな家族離散をもたらしてしまいました。それだけ、「祖国に帰ること」は中国残留日本人孤児にとって、人生を賭けて成し遂げたい、いや成し遂げなくてはならない使命のようなものだったのです。

 

父の姉(幸代)長女

 

末っ子だった父は、中国の養父母のもとで成人し、同じ職場で知り合った中国人女性(私の母)と結婚し、3人の子どもとともに元気に暮らしていました。そのうちのひとりが、私です。日本にいた祖父からしてみたら、ずっと消息不明でしたが、帰国した父の姉の話からようやく元気でいることを知ったというわけです。

 

両親の婚前記念写真


祖父は当然、父の帰国を希望しましたが、中国の養父母に申し訳ない気持ちもあり、ずいぶん迷ったようです。でも、父は「実の父親に早く会いたい」一心で、日本への帰国を決断しました。

 

帰国前、近所の友達との送別会の様子

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楽仙樓の歴史⑥「下鴨から四条へ」
楽仙樓の歴史

楽仙樓の歴史⑥「下鴨から四条へ」

投稿者 三原伸子

<6>下鴨から四条へ 口コミで広がったお客さま 思えば、よくない要因はたくさんありました。エアコンの効きが悪くて夏場は暑過ぎたこと。お客さまが増えるのはうれしいけれど、母ひとりでは料理を提供するのに時間がかかったこと。それが原因で、味は好きだけれど足が遠のくお客さまがいたことは事実です。 一方で、そんな行き届かないところもわかったうえで来てくれる方はたくさんいました。理由はやっぱり「おいしいから」です。そうした方たちに支えられて、さらにそこから新しいお客さまに広がり、顧客を少しずつ増やしながら、下鴨の楽仙樓はなんとか8年続きました。まだSNSが広がっていなかった時代、ほとんどはお客さまの口コミです。ほんとうにありがたいけれど、まだまだサービスの面では追いつかないことばかり。店をきれいにしたいけど、私はまだ会社員をしながら店の手伝いをしていたころなので、やりたいことが追いつきません。「いつか」と思っているうちに、8年が経っていたという感じです。それでも少しずつ利益が出るようになり、いつもお客さまで賑わっている店、という印象も定着してきました。 軌道にのったかと思えばまた、新しい問題が起こるものです。店の賑わいを知った下鴨の店の大家さんが、家賃の大幅値上げを伝えてきたのです。大家さんの目には、ずいぶんお店が繁盛しているように見えたのでしょう。多少の利益は出るようになったとはいえ、資金に余裕があったわけではありません。下鴨の店は気に入っていたし、ようやくお客さんが定着してきたころですが、仕方なく次の場所を探すことに決めました。 四条の店舗物件との出会い 2000年台の京都中心地の店舗家賃は、とんでもなく高騰していました。場所、広さともに「いいな」という物件があっても、保証金だけで300万円もかかったり、飲食店への貸し出しは嫌がられたり。飲食店は物件が汚れやすいというのがその理由ですが、それが中華料理店となればなおさらです。 いくつか候補があったなかで、母がものすごく気に入った物件がありました。四条の繁華街からすぐのところにあって、広さも十分で使いやすい。なかなか見つからなかったビルの1階で道路に面しているという点も条件にぴったりでした。当然、多くの店舗が入居を希望している物件です。ところが、ビルのオーナーはどれも断っているとのこと。それでも、母はあきらめませんでした。きっと、その物件に「ピンときた」のでしょう。「ここがいい」「ここでないと」と意地を張ったのは、意外でした。 そのとき、力になってくれたのも、また残留孤児の仲間でした。以前からうちのお店の保証人になってくれたMさんは、下鴨の店の家主と揉めた時も、間に入って話をまとめてくれました。物件探しにあたっても、ビルのオーナーとの交渉に入って説得にまわってくれたのです。Mさんは、母の人柄と一生懸命さをきちんと伝えれば、オーナーの気も変わるだろうと考え、頑なに拒んでいたオーナーを説き伏せて、母との面談の場を設けてくれました。その作戦は、大成功でした。あれだけ「飲食店には貸さない」と宣言していたオーナーが、OKを出してくれたのです。  2004年2月号「Club Fame」 腹水手術のために中国へ 2003年、四条の駅からすぐ、東洞院通に楽仙樓は移転し、再オープンしました。さまざまな飲食店が、出店したくてもできなかった好立地。これまで以上にお客さんが集まったことは、いうまでもありません。 当時まだ会社勤めをしていた私が店を手伝えるのは、週末だけ。私の夫はまだ学生だったので、代わりに学生バイトをたくさん呼んでくれて、オープン当初の忙しい時期を乗り切りました。厨房は、これまでのように母がメインで鍋をふるいます。結果をいうと、そこから2年ほどで、それまでの借金をすべて返却しました。ところが、ここまで休まずに働き続けていた母の体は、悲鳴を上げ始めていたのです。 2004年12月、たまった腹水を手術するため、母は中国に渡りました。日本の病院で診てもらったところ、手術ができないと言われてしまったためです。その上、中国で高いレベルの治療を受けるには、かなりお金がかかります。お店の移転と借金の返済で、余裕のあるお金はありませんでしたから、またもや、困り果ててしまいました。 そのときに助けてくれたのも、中国人の知人たちでした。渡航費用、手術費用を集めてくれて、母に貸してくれて、中国に送り出してくれたのです。手術をしてくれた先生も、日本で知り合った中国人の方でした。さらに、病院で新たに脾臓肥大が見つかり、また別の病院で脾臓提出手術をすることに。2005年1月13日のことでした。どうしてこの日付を覚えているかというと、私の主人の父が同じ日に亡くなったから。その前日、私の二人目の子どもの妊娠がわかったばかりでした。病気から救われた命、去っていった命、そして新しい命、同時に多くのことが起きて、運命の流れを感じずにはいられません。うまくいかないことばかりだけれど、なぜか悲観的な気持ちはありませんでした。 母の手術はうまくいったものの、すぐに仕事に復帰はできません。ほぼひとりで店を回していた母がいなくなって、代わりの料理人をお願いし、アルバイトで店を回し、なんとか切り抜けましたが、以前のようにはいきません。 せっかくゼロにした借金でしたが、またいつのまにか増えていたのです。

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楽仙樓の歴史⑤「下鴨楽仙樓」
楽仙樓の歴史

楽仙樓の歴史⑤「下鴨楽仙樓」

投稿者 三原伸子

<5> 下鴨の楽仙樓 店舗も手づくりで 中国にいたときにつくっていた餃子を、日本に来てからもつくり続けていた母。近所や私の通っていた小学校でふるまうようになって、ファンが増えていき、1994年、店を出すまでになりました。場所は、京都の下鴨で、店の名前は「楽仙樓」。「お客様は仙人のように貴重で得難い人物。その方たちに私たちの店で楽しんで頂く場所」という思いを込めて、父がつけたものです。 そのとき私は19歳。京都で高校を卒業し、中国語を学ぶために専門学校に通っていたころでした。私が両親と一緒に日本に来たのは4歳のときですから、中国語は親が話していた基本的なことしか知りません。というより、小中学校のころは、いじめられるのが嫌で、中国人であることは隠し、中国語を話すことはありませんでした。でも、そのまま中国語を忘れてしまうのは、もったいない。そう思って、改めて勉強を始めたのです。 私は、専門学校に通いながらも、いくつかかけもちしていたアルバイトをやめ、店のオープンにあたって餃子の仕込みを手伝ったり、ホール担当として働いたり、何役もこなしました。母と一緒にメニューを考えて、値段をつけて、お品書きは手書きで10枚以上描いたりもしました。 また、開店当時から、持ち帰り用の窓口をつくり、冷凍した餃子の販売も始めることにしました。テイクアウトメニューをつくるのはもちろん、窓口の装飾も手作りです。   下鴨楽仙樓外観 1994年当時、冷凍のテイクアウトを始めたのは、かなり早かったほうだと思いますが、京都ではすでに、テイクアウトのひとくち餃子が定着していたので、受け入れられる土壌はできていました。ただ、楽仙樓は水餃子だけで、それも冷凍のみ。というのも、母の手づくり餃子の特徴でもあるもちもちした皮と、素材の食感が生きるように野菜や具材の水分もそのまま使っている餡は、包んですぐに冷凍するほかに、食感とおいしさを保つ方法がないのです。焼き餃子であれば、市販の皮を使ったり、焼いたものを店頭に置いておくこともできますが、水餃子はそういうわけにはいかないのです。 水餃子以外はゼロからのスタート   開店にあたって、ひとつの大きな問題がありました。母の餃子は確かにおいしいけれど、日本ではまだ一般的でない水餃子だけに、これだけではさすがに難しいだろう。料理も店の経営もやったことのない私ですが、それだけははっきりとわかりました。そこで、水餃子をメインとしてやりつつ、ほかの中国北方料理も提供していってはどうだろうか、と思いたったのです。 ところが、やってはみたものの、水餃子以外未経験の母ですから、どうもうまくいきません。上手くできたとしても味が安定しなかったり、提供するのに時間がかかったりで、お客さんに迷惑をかけてばかり。 困っていた私たちに協力してくれたのは、このときも近所の方々でした。向かいのスーパーの奥さん、隣のお肉屋さんのご主人、商店街のお花屋さん…、みんながいろんな意見をくれるのです。味をもっとこうしたらいいんじゃないか。段取りはこうしたらよくなる。それを聞き入れながら、少しずつ改善していく素直さは、やっぱり母のいいところ。 その上、見かねた父も厨房に入って、かつて経験した料理人としての知識と腕を総動員して、料理づくりを手伝いました。どうやら、水餃子以外は父のほうが腕がよかったようです。当時、会社員として働いていた父は、開店に合わせて会社を休み、1か月間母と料理をつくり続けました。 母は父がつくる何種類もの料理を1か月ですべて覚えて、レパートリーを増やしていき…。体が覚えれば、短時間でつくれるようになり、味のレベルも安定するものです。どうやら母は、「見て覚える」のは得意なようでした。 同時に、1か月間、十分に寝ることも休むこともなく料理をつくり続けた父の体に、異変が起こっていました。かねてから患っていた痔が悪化し、入院することになったのです。 となれば、母ひとりで「見て覚える」特技を生かして、あとはなんとかやるしかありません。その特技が特に生かされたのは、新メニューとしてつくった天津丼や中華丼でした。こうした丼ものは、中国にはなくて日本独自のものですから、中国で料理人をしていた父のレパートリーにはありません。でも、母が日本に来てからアルバイトで働いた京都の中華料理店には、ありました。母の仕事は皿洗いがメインでしたから、料理はしませんが、シェフの料理を横目で見ながら、使う材料や手順を覚えていたのです。見よう見まねでつくった天津丼は大成功。その後、店の人気メニューにもなりました。   父の昔の経験と、母のがんばりで、楽仙樓のメニューはたちまち増えていきました。おいしいと言ってくれるお客さんも増えてきました。ただ、家賃を払って、仕入れをして、お店に必要な経費を差し引けば、赤字の連続。母と私がくたくたになるまで1日中働いても、事態は変わりません。何が悪いのか、何を改善したらいいのかも、わからないまま、月日は過ぎていきました。

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