楽仙樓の歴史②「照光を頼む」

楽仙樓の歴史②「照光を頼む」

三原伸子 によって に投稿されました

「一切の困難を克服する覚悟です」


母のほうは、父より3つ年下で1948年ハルビン生まれ。1歳のとき実母を病気で亡くし、瀋陽(遼寧省)の母方の祖母に引き取られました。祖母が亡くなったあとは、実母の弟(叔父)の家で暮らしていたそうです。その叔父も結婚し、居場所がなくなった母は、14歳で生まれ故郷のハルビンに戻り、学校へは行かず、住み込みで働く決心をします。

 

母の母(私のおばあちゃん)

享年27歳、唯一の写真

 

母の祖母


二人は同僚の紹介で出会ったそうです。お互いの第一印象は、 父→母「よく働く人」、 母→父「優しい人」 だったそうです。面白いもので、この印象は二人を表す言葉として今でもよく使われます。環境が変わっても、根本は変わっていないのです。


二人は約1年の交際の後、1970年12月24日に結婚しました。クリスマスイヴが結婚記念日ですが、意図したわけではなかったようです。70元(当時の1万円ほど)で新居を購入し、共働きをしながら質素に暮らしていました。


そんなとき、先に帰国していた父の両親が日本で見つかったと連絡が飛び込んできたのです。いよいよ、父も続いて日本に帰ることができるかもしれない。かすかに未来が開けたかのようでした。


まずは、日本にいる両親との親子関係を証明するための書類が必要でした。戦中戦後の混乱期、出生届というものはありませんでした。できることは、ハルビン難民所で父を取り上げた産婆さん(助産師)を探して、証明してもらうこと。こんな無理難題をあきらめなかったのが、父の兄嫁でした。根気強く産婆さんを探しあて、その後も政府が要求する書類を集めることに奔走し、5年もの歳月をかけて、父の帰国のために力を尽くしてくれたのです。

 

帰国にあたって世話をやいてくれた父の兄嫁ですが、ひとつ気にかかっていたことがあったそうです。それは、父とともに日本にやって来る母の意志でした。日本語は一切わからず、習慣も違う日本に来て、生きていく覚悟がどれだけあるのか。父母の帰国前に、その覚悟を手紙で確認したそうです。その返事には、こう書いてあったそうです。

 

「我要克服一切困」(一切の困難を克服する覚悟です)

 

短い言葉ですが、これほど力強いものはありません。

 

父の3番目の兄夫婦

ようやく日本に戻るすべての条件が整い、1979年4月3日、私たち家族は日本にやって来ました。父は34歳でやっと日本の土を踏むことができました。ところが、準備にかかった5年は、日本で息子の帰りを待ちわびていた祖父(父の父)にとっては長すぎる時間だったようです。息子を待つ間に亡くなってしまったのです。最期の言葉は、「照光(父の日本名)を頼む」だったそうです。

私のおじいちゃん(父の父)


祖母(父の母)は日本に帰国してから7人目の子どもを産み、その後、子宮がんで亡くなっていました。日本に帰って両親に会うことを心待ちにしていた父でしたが、その願いが叶えられることはありませんでした。

← 前の記事 次の記事 →

コメントを残す

history

RSS
楽仙樓の歴史⑥「下鴨から四条へ」
楽仙樓の歴史

楽仙樓の歴史⑥「下鴨から四条へ」

投稿者 三原伸子

<6>下鴨から四条へ 口コミで広がったお客さま 思えば、よくない要因はたくさんありました。エアコンの効きが悪くて夏場は暑過ぎたこと。お客さまが増えるのはうれしいけれど、母ひとりでは料理を提供するのに時間がかかったこと。それが原因で、味は好きだけれど足が遠のくお客さまがいたことは事実です。 一方で、そんな行き届かないところもわかったうえで来てくれる方はたくさんいました。理由はやっぱり「おいしいから」です。そうした方たちに支えられて、さらにそこから新しいお客さまに広がり、顧客を少しずつ増やしながら、下鴨の楽仙樓はなんとか8年続きました。まだSNSが広がっていなかった時代、ほとんどはお客さまの口コミです。ほんとうにありがたいけれど、まだまだサービスの面では追いつかないことばかり。店をきれいにしたいけど、私はまだ会社員をしながら店の手伝いをしていたころなので、やりたいことが追いつきません。「いつか」と思っているうちに、8年が経っていたという感じです。それでも少しずつ利益が出るようになり、いつもお客さまで賑わっている店、という印象も定着してきました。 軌道にのったかと思えばまた、新しい問題が起こるものです。店の賑わいを知った下鴨の店の大家さんが、家賃の大幅値上げを伝えてきたのです。大家さんの目には、ずいぶんお店が繁盛しているように見えたのでしょう。多少の利益は出るようになったとはいえ、資金に余裕があったわけではありません。下鴨の店は気に入っていたし、ようやくお客さんが定着してきたころですが、仕方なく次の場所を探すことに決めました。 四条の店舗物件との出会い 2000年台の京都中心地の店舗家賃は、とんでもなく高騰していました。場所、広さともに「いいな」という物件があっても、保証金だけで300万円もかかったり、飲食店への貸し出しは嫌がられたり。飲食店は物件が汚れやすいというのがその理由ですが、それが中華料理店となればなおさらです。 いくつか候補があったなかで、母がものすごく気に入った物件がありました。四条の繁華街からすぐのところにあって、広さも十分で使いやすい。なかなか見つからなかったビルの1階で道路に面しているという点も条件にぴったりでした。当然、多くの店舗が入居を希望している物件です。ところが、ビルのオーナーはどれも断っているとのこと。それでも、母はあきらめませんでした。きっと、その物件に「ピンときた」のでしょう。「ここがいい」「ここでないと」と意地を張ったのは、意外でした。 そのとき、力になってくれたのも、また残留孤児の仲間でした。以前からうちのお店の保証人になってくれたMさんは、下鴨の店の家主と揉めた時も、間に入って話をまとめてくれました。物件探しにあたっても、ビルのオーナーとの交渉に入って説得にまわってくれたのです。Mさんは、母の人柄と一生懸命さをきちんと伝えれば、オーナーの気も変わるだろうと考え、頑なに拒んでいたオーナーを説き伏せて、母との面談の場を設けてくれました。その作戦は、大成功でした。あれだけ「飲食店には貸さない」と宣言していたオーナーが、OKを出してくれたのです。  2004年2月号「Club Fame」 腹水手術のために中国へ 2003年、四条の駅からすぐ、東洞院通に楽仙樓は移転し、再オープンしました。さまざまな飲食店が、出店したくてもできなかった好立地。これまで以上にお客さんが集まったことは、いうまでもありません。 当時まだ会社勤めをしていた私が店を手伝えるのは、週末だけ。私の夫はまだ学生だったので、代わりに学生バイトをたくさん呼んでくれて、オープン当初の忙しい時期を乗り切りました。厨房は、これまでのように母がメインで鍋をふるいます。結果をいうと、そこから2年ほどで、それまでの借金をすべて返却しました。ところが、ここまで休まずに働き続けていた母の体は、悲鳴を上げ始めていたのです。 2004年12月、たまった腹水を手術するため、母は中国に渡りました。日本の病院で診てもらったところ、手術ができないと言われてしまったためです。その上、中国で高いレベルの治療を受けるには、かなりお金がかかります。お店の移転と借金の返済で、余裕のあるお金はありませんでしたから、またもや、困り果ててしまいました。 そのときに助けてくれたのも、中国人の知人たちでした。渡航費用、手術費用を集めてくれて、母に貸してくれて、中国に送り出してくれたのです。手術をしてくれた先生も、日本で知り合った中国人の方でした。さらに、病院で新たに脾臓肥大が見つかり、また別の病院で脾臓提出手術をすることに。2005年1月13日のことでした。どうしてこの日付を覚えているかというと、私の主人の父が同じ日に亡くなったから。その前日、私の二人目の子どもの妊娠がわかったばかりでした。病気から救われた命、去っていった命、そして新しい命、同時に多くのことが起きて、運命の流れを感じずにはいられません。うまくいかないことばかりだけれど、なぜか悲観的な気持ちはありませんでした。 母の手術はうまくいったものの、すぐに仕事に復帰はできません。ほぼひとりで店を回していた母がいなくなって、代わりの料理人をお願いし、アルバイトで店を回し、なんとか切り抜けましたが、以前のようにはいきません。 せっかくゼロにした借金でしたが、またいつのまにか増えていたのです。

続きを読む
楽仙樓の歴史⑤「下鴨楽仙樓」
楽仙樓の歴史

楽仙樓の歴史⑤「下鴨楽仙樓」

投稿者 三原伸子

<5> 下鴨の楽仙樓 店舗も手づくりで 中国にいたときにつくっていた餃子を、日本に来てからもつくり続けていた母。近所や私の通っていた小学校でふるまうようになって、ファンが増えていき、1994年、店を出すまでになりました。場所は、京都の下鴨で、店の名前は「楽仙樓」。「お客様は仙人のように貴重で得難い人物。その方たちに私たちの店で楽しんで頂く場所」という思いを込めて、父がつけたものです。 そのとき私は19歳。京都で高校を卒業し、中国語を学ぶために専門学校に通っていたころでした。私が両親と一緒に日本に来たのは4歳のときですから、中国語は親が話していた基本的なことしか知りません。というより、小中学校のころは、いじめられるのが嫌で、中国人であることは隠し、中国語を話すことはありませんでした。でも、そのまま中国語を忘れてしまうのは、もったいない。そう思って、改めて勉強を始めたのです。 私は、専門学校に通いながらも、いくつかかけもちしていたアルバイトをやめ、店のオープンにあたって餃子の仕込みを手伝ったり、ホール担当として働いたり、何役もこなしました。母と一緒にメニューを考えて、値段をつけて、お品書きは手書きで10枚以上描いたりもしました。 また、開店当時から、持ち帰り用の窓口をつくり、冷凍した餃子の販売も始めることにしました。テイクアウトメニューをつくるのはもちろん、窓口の装飾も手作りです。   下鴨楽仙樓外観 1994年当時、冷凍のテイクアウトを始めたのは、かなり早かったほうだと思いますが、京都ではすでに、テイクアウトのひとくち餃子が定着していたので、受け入れられる土壌はできていました。ただ、楽仙樓は水餃子だけで、それも冷凍のみ。というのも、母の手づくり餃子の特徴でもあるもちもちした皮と、素材の食感が生きるように野菜や具材の水分もそのまま使っている餡は、包んですぐに冷凍するほかに、食感とおいしさを保つ方法がないのです。焼き餃子であれば、市販の皮を使ったり、焼いたものを店頭に置いておくこともできますが、水餃子はそういうわけにはいかないのです。 水餃子以外はゼロからのスタート   開店にあたって、ひとつの大きな問題がありました。母の餃子は確かにおいしいけれど、日本ではまだ一般的でない水餃子だけに、これだけではさすがに難しいだろう。料理も店の経営もやったことのない私ですが、それだけははっきりとわかりました。そこで、水餃子をメインとしてやりつつ、ほかの中国北方料理も提供していってはどうだろうか、と思いたったのです。 ところが、やってはみたものの、水餃子以外未経験の母ですから、どうもうまくいきません。上手くできたとしても味が安定しなかったり、提供するのに時間がかかったりで、お客さんに迷惑をかけてばかり。 困っていた私たちに協力してくれたのは、このときも近所の方々でした。向かいのスーパーの奥さん、隣のお肉屋さんのご主人、商店街のお花屋さん…、みんながいろんな意見をくれるのです。味をもっとこうしたらいいんじゃないか。段取りはこうしたらよくなる。それを聞き入れながら、少しずつ改善していく素直さは、やっぱり母のいいところ。 その上、見かねた父も厨房に入って、かつて経験した料理人としての知識と腕を総動員して、料理づくりを手伝いました。どうやら、水餃子以外は父のほうが腕がよかったようです。当時、会社員として働いていた父は、開店に合わせて会社を休み、1か月間母と料理をつくり続けました。 母は父がつくる何種類もの料理を1か月ですべて覚えて、レパートリーを増やしていき…。体が覚えれば、短時間でつくれるようになり、味のレベルも安定するものです。どうやら母は、「見て覚える」のは得意なようでした。 同時に、1か月間、十分に寝ることも休むこともなく料理をつくり続けた父の体に、異変が起こっていました。かねてから患っていた痔が悪化し、入院することになったのです。 となれば、母ひとりで「見て覚える」特技を生かして、あとはなんとかやるしかありません。その特技が特に生かされたのは、新メニューとしてつくった天津丼や中華丼でした。こうした丼ものは、中国にはなくて日本独自のものですから、中国で料理人をしていた父のレパートリーにはありません。でも、母が日本に来てからアルバイトで働いた京都の中華料理店には、ありました。母の仕事は皿洗いがメインでしたから、料理はしませんが、シェフの料理を横目で見ながら、使う材料や手順を覚えていたのです。見よう見まねでつくった天津丼は大成功。その後、店の人気メニューにもなりました。   父の昔の経験と、母のがんばりで、楽仙樓のメニューはたちまち増えていきました。おいしいと言ってくれるお客さんも増えてきました。ただ、家賃を払って、仕入れをして、お店に必要な経費を差し引けば、赤字の連続。母と私がくたくたになるまで1日中働いても、事態は変わりません。何が悪いのか、何を改善したらいいのかも、わからないまま、月日は過ぎていきました。

続きを読む