店を継ぐ決意
楽仙樓を手伝いつつも、私が会社員として働いていたの期間は10年間ほどありました。その間に母の入院があり、療養期間があり、その間は姉や夫も手伝い、アルバイトも含め4人ほどで店を回していました。ただ、人手がかかる割には、母がやっていたときほど売り上げは上がりません。
外食に関しては素人同然だった夫でさえ、「このままやったらお母さんの店、つぶれてしまうで」「あの餃子の味を途絶えさせていいんか」と心配し始めました。そう言われると、ここまでの母の頑張りを無にしてしまうことはできません。支えてくれた母の餃子ファンにも申し訳ないし、本当はまだ続けたい母の思いにも反してしまいます。かつては母に結婚を反対され、うちの商売とは一切関係のなかった夫の言葉で、まさか店の運命が変わるとは。
そのころ、こんな出来事もありました。2007年、中国から甥っ子(正確には、母の腹違いの弟の息子)を呼び寄せ、料理人として雇い、京都郊外の六地蔵に新しい店をオープンしたのです。母が中国・北京で手術入院をしていたとき、腹違いの弟がハルビンから駆けつけ、1カ月付き添って看病してくれたそうで、その息子を呼び寄せることは、あのときの恩返しの意味もあったのでしょう。甥はしばらく中国で料理修行をしてから来日し、その後楽仙樓で母のもと働いていました。その間に、六地蔵に居抜きの物件があると聞いた母が、そこで新店をオープンし、甥に任せることにしたのです。が、ことは思ったほどはうまくいきませんでした。
六地蔵店 2007年5月号「C.F」
オープンしてから甥の新店を見に行くと、楽仙樓の面影はなく、私たちがこだわっていた店内のセンスも、踏襲されることはありませんでした。私と主人はいてもたってもいられなくなって、飾り棚を手作りし、テーブルクロスを縫いビニールシートをかぶせて、なんとか体裁をつくろいましたが…。立地の難しさもあり、3年たたないうちに閉店することになりました。いったんは中国に戻ったものの、今はまた私のもとで働いています。
まだあった300万円の借金
転換期が訪れていることを感じ、私は会社員を辞める決意を固め、母の後を継ぐことを決めました。四条に店が移転してから7年後、2010年9月のことでした。私は35歳、母は62歳でした。本当はもう引退を考えてもいい年齢にもかかわらず、療養後の母はもう一度餃子づくりに復帰、また以前のようにすべての料理をつくるようになりました。
店を継ぎ、本格的に働き始めてみると、愕然とすることばかり。「終わってる…」と思いました。
客席のテーブルは油でべたべた。せっかくのテラス席もぼろぼろで誰も座れない状態です。厨房の床は油まみれで、滑って転ばないように歩くだけで精いっぱい。冷蔵庫も冷凍庫もパンパンで、何がどこにあるかわかりません。ちょっと中を見れば、賞味期限が切れている材料もたくさん詰まっている。
こんな店で食べたくないし、働きたくない。何から、どうやって片付けていくか、途方に暮れてしまいました。さらに、母は売り上げを計算することまで手が回っていなかったこともわかりました。それも仕方ありません。すべての料理、すべての餃子を手づくりするのに精一杯で、お金のことを気にする余裕すらなかったのです。
いっときはすべて返済した借金も、いつの間にかまた300万円ほどにふくらんでいました。それを知ったときは愕然としましたが、ここで背中を押してくれたのも、夫でした。
「いろいろ考えても仕方ない。俺の貯金で300万円返したろ」
ひとつひとつ磨き上げる
夫の協力で借金を返し、日々の売り上げの中から少しずつ店の改修に費用を回しながら、「食べたくない」「働きたくない」店を、なんとか元の「食べたくなる」店に戻していく挑戦が始まりました。お金のかかる大規模な修理はできません。私たちにできるのは、「自分たちの手で」少しずつきれいにしていくことだけ。
まず、冷蔵庫の中、食材置き場を整理整頓することから始めました。今までぐちゃぐちゃだったものの置き場所をしっかり決め、肉類を置くところ、野菜をおくところ、そのほかの食材をおくところ、と区分けしました。さらに細かく、「餃子を置く場所」「マヨネーズを置く場所」と細かく決めて、それぞれの在庫の残りがどれくらいかが、すぐにわかるようにしました。それができていなかったために、賞味期限切れのものがそのまま置かれていたり、必要なものがすぐに出てこなかったり、無駄に発注をしてしまったり、といったことが発生していたのです。整理整頓をすることで、コスト削減もできることがよくわかりました。
店内のテーブルは一枚一枚拭いて、磨いて、元のきれいな状態に戻しました。ただ拭くだけでは長年の頑固な汚れは取れませんから、強力なメラミンスポンジでひたすら擦って――でも1日にできるのはテーブルひとつぶんだけ――、毎日出勤して店の掃除をひととおり終えてから、テーブルをごしごし磨くのは、私の日課でした。
店内も毎日磨いて、拭いて、とにかくたまった汚れを落としていきました。壁を磨いたら、次は机を磨いて、その次は椅子をきれいにして…。油まみれの床はもっとも苦労したところで、仕事が休みの日には父も手伝って、一緒に磨きました。汚れがこびりついた黒い床を毎日磨くこと1か月、ようやく元の床が現れたときは、「わー」と声が出たほどでした。お金をかけられないぶん、毎日がスタッフ総出の大掃除みたいなものです。内装の次は、テーブルに置くメニューや醤油差しなどをすべて取り換えるのですが、ここにもお金はかけられませんから、100円ショップなどを活用して、シンプルなものをそろえました。
古くなった食器は、捨てるのはもったいないので、業者に買い取ってもらいました。でも、ずっと店をやってきた母にしてみれば、「もったいない」と。「いつか使うかもしれへん」と言うのを振り切って、少しずつ手放しました。
厨房のもを整理したら、ほんのわずかですがスペースに余裕ができて、スタッフひとりぶんのスペースも生まれました。ここに机と椅子を置いて、売り上げの計算をしたり、パソコンで作業したり、必要なら休憩を取ったりもできます。大掃除を始めたころは気がつかなかったけれど、無駄を見直しことは結果としてコスト削減につながり、さらに新しいスペースや気持ちの余裕をももたらす。体力的には大変だったけれど、店が明るくなって、店のこれからも明るいような気持ちになれたことは、とても大きな変化でした。
雑誌「Meets」で紹介された記事