楽仙樓の歴史⑧「自分の手で店を再起」

楽仙樓の歴史⑧「自分の手で店を再起」

三原伸子 によって に投稿されました

店を継ぐ決意

楽仙樓を手伝いつつも、私が会社員として働いていたの期間は10年間ほどありました。その間に母の入院があり、療養期間があり、その間は姉や夫も手伝い、アルバイトも含め4人ほどで店を回していました。ただ、人手がかかる割には、母がやっていたときほど売り上げは上がりません。

 

外食に関しては素人同然だった夫でさえ、「このままやったらお母さんの店、つぶれてしまうで」「あの餃子の味を途絶えさせていいんか」と心配し始めました。そう言われると、ここまでの母の頑張りを無にしてしまうことはできません。支えてくれた母の餃子ファンにも申し訳ないし、本当はまだ続けたい母の思いにも反してしまいます。かつては母に結婚を反対され、うちの商売とは一切関係のなかった夫の言葉で、まさか店の運命が変わるとは。

 

そのころ、こんな出来事もありました。2007年、中国から甥っ子(正確には、母の腹違いの弟の息子)を呼び寄せ、料理人として雇い、京都郊外の六地蔵に新しい店をオープンしたのです。母が中国・北京で手術入院をしていたとき、腹違いの弟がハルビンから駆けつけ、1カ月付き添って看病してくれたそうで、その息子を呼び寄せることは、あのときの恩返しの意味もあったのでしょう。甥はしばらく中国で料理修行をしてから来日し、その後楽仙樓で母のもと働いていました。その間に、六地蔵に居抜きの物件があると聞いた母が、そこで新店をオープンし、甥に任せることにしたのです。が、ことは思ったほどはうまくいきませんでした。

 

六地蔵店 2007年5月号「C.F」

 

オープンしてから甥の新店を見に行くと、楽仙樓の面影はなく、私たちがこだわっていた店内のセンスも、踏襲されることはありませんでした。私と主人はいてもたってもいられなくなって、飾り棚を手作りし、テーブルクロスを縫いビニールシートをかぶせて、なんとか体裁をつくろいましたが…。立地の難しさもあり、3年たたないうちに閉店することになりました。いったんは中国に戻ったものの、今はまた私のもとで働いています。



まだあった300万円の借金

 

転換期が訪れていることを感じ、私は会社員を辞める決意を固め、母の後を継ぐことを決めました。四条に店が移転してから7年後、2010年9月のことでした。私は35歳、母は62でした。本当はもう引退を考えてもいい年齢にもかかわらず、療養後の母はもう一度餃子づくりに復帰、また以前のようにすべての料理をつくるようになりました。



店を継ぎ、本格的に働き始めてみると、愕然とすることばかり。「終わってる…」と思いました。

 

客席のテーブルは油でべたべた。せっかくのテラス席もぼろぼろで誰も座れない状態です。厨房の床は油まみれで、滑って転ばないように歩くだけで精いっぱい。冷蔵庫も冷凍庫もパンパンで、何がどこにあるかわかりません。ちょっと中を見れば、賞味期限が切れている材料もたくさん詰まっている。

 

こんな店で食べたくないし、働きたくない。何から、どうやって片付けていくか、途方に暮れてしまいました。さらに、母は売り上げを計算することまで手が回っていなかったこともわかりました。それも仕方ありません。すべての料理、すべての餃子を手づくりするのに精一杯で、お金のことを気にする余裕すらなかったのです。

 

いっときはすべて返済した借金も、いつの間にかまた300万円ほどにふくらんでいました。それを知ったときは愕然としましたが、ここで背中を押してくれたのも、夫でした。

 

「いろいろ考えても仕方ない。俺の貯金で300万円返したろ」

 

ひとつひとつ磨き上げる

夫の協力で借金を返し、日々の売り上げの中から少しずつ店の改修に費用を回しながら、「食べたくない」「働きたくない」店を、なんとか元の「食べたくなる」店に戻していく挑戦が始まりました。お金のかかる大規模な修理はできません。私たちにできるのは、「自分たちの手で」少しずつきれいにしていくことだけ。

 

まず、冷蔵庫の中、食材置き場を整理整頓することから始めました。今までぐちゃぐちゃだったものの置き場所をしっかり決め、肉類を置くところ、野菜をおくところ、そのほかの食材をおくところ、と区分けしました。さらに細かく、「餃子を置く場所」「マヨネーズを置く場所」と細かく決めて、それぞれの在庫の残りがどれくらいかが、すぐにわかるようにしました。それができていなかったために、賞味期限切れのものがそのまま置かれていたり、必要なものがすぐに出てこなかったり、無駄に発注をしてしまったり、といったことが発生していたのです。整理整頓をすることで、コスト削減もできることがよくわかりました。

 

店内のテーブルは一枚一枚拭いて、磨いて、元のきれいな状態に戻しました。ただ拭くだけでは長年の頑固な汚れは取れませんから、強力なメラミンスポンジでひたすら擦って――でも1日にできるのはテーブルひとつぶんだけ――、毎日出勤して店の掃除をひととおり終えてから、テーブルをごしごし磨くのは、私の日課でした。

 

店内も毎日磨いて、拭いて、とにかくたまった汚れを落としていきました。壁を磨いたら、次は机を磨いて、その次は椅子をきれいにして…。油まみれの床はもっとも苦労したところで、仕事が休みの日には父も手伝って、一緒に磨きました。汚れがこびりついた黒い床を毎日磨くこと1か月、ようやく元の床が現れたときは、「わー」と声が出たほどでした。お金をかけられないぶん、毎日がスタッフ総出の大掃除みたいなものです。内装の次は、テーブルに置くメニューや醤油差しなどをすべて取り換えるのですが、ここにもお金はかけられませんから、100円ショップなどを活用して、シンプルなものをそろえました。

 

古くなった食器は、捨てるのはもったいないので、業者に買い取ってもらいました。でも、ずっと店をやってきた母にしてみれば、「もったいない」と。「いつか使うかもしれへん」と言うのを振り切って、少しずつ手放しました。

 

厨房のもを整理したら、ほんのわずかですがスペースに余裕ができて、スタッフひとりぶんのスペースも生まれました。ここに机と椅子を置いて、売り上げの計算をしたり、パソコンで作業したり、必要なら休憩を取ったりもできます。大掃除を始めたころは気がつかなかったけれど、無駄を見直しことは結果としてコスト削減につながり、さらに新しいスペースや気持ちの余裕をももたらす。体力的には大変だったけれど、店が明るくなって、店のこれからも明るいような気持ちになれたことは、とても大きな変化でした。

雑誌「Meets」で紹介された記事

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楽仙樓の歴史⑦「学生結婚と夫の決意」
楽仙樓の歴史

楽仙樓の歴史⑦「学生結婚と夫の決意」

投稿者 三原伸子

結婚に大反対だった母 下鴨から四条に店舗を移し、商売がうまく回り出したかと思ったところで、母の手術。中国に渡って腹水を抜く手術をして、幸い成功したものの、帰国後も闘病生活を送り、1年半ほどお店に出ることができませんでした。姉が料理人を雇って、なんとか店を回してくれましたが、母にしてみれば。せっかくここまでやってきたのに…と、どれほど悔しかったことでしょう。ずっと隣で見てきた私も、もちろん同じ気持ちです。でも、この時点ではまだ、私はお店を継ぐ決意はできていませんでした。 ここで少し、私の話をさせてください。 早くから母の店を手伝いながらも、両親の母国である中国の言葉をきちんと勉強したいという思いがあり、20歳のとき(1996年)から5年にわたって中国に留学しました。はじめは遼寧省の瀋陽で学び、その後大学に合格して4年間北京で過ごしました。予定外だったのは、留学先で出会った韓国籍の男性と学生結婚し、留学中に子どもを授かったことでした。本当はもっと長く中国にいたかったけれど、1998年に出産のため日本に帰国。地元・京都で娘を出産しました。 ちなみに、この結婚に母は初めから大反対。私が絶対に苦労するからといって激怒して、留学先の北京まで押しかけて来そうな勢いでした。一方、義父のほうは手がけていたビジネスで韓国と中国を行き来し、留学中の私もそれを手伝ったりして関係は良好でした。母がどうやって結婚を許したかというと、それは「子どもができた」から。中国から母に妊娠を告げようと電話をしたとき、意外にも「生むしかないんやろ」という穏やかな反応。やはり、孫ができるということは、何にも代えられない喜びなのでしょう。激怒されるのを覚悟で電話をした私は、母の態度の急変に、拍子抜けしてしまったほどでした。 子どものことを隠したまま就職 まだお店の収益は安定していなかったころですから、出産後の私は企業に就職する道を選びました。小さな子どもを育てながらの就職活動は、まだ不利になることが多かったころ。私は子持ちであることを隠して面接を受け、合格したあともしばらく隠して働き続けていました。 当時、京都の自宅から大阪まで1時間以上かけて通い、娘のお迎えは会社勤めの父が帰りに行ってくれました。私が帰るのは夜遅くなで、娘はいつもお店の2階で遊んでいたものです。お店を気にかけながらも、娘がまだ小さくても、私がフルタイムで働きたかったのは、お店の売り上げを補填することもありましたが、そのときまだ学生だった夫を扶養するためでもありました。 私との結婚、そして日本帰国によって、初めて日本に住むことになった夫。それは、韓国で学んだことも、ドイツや中国に留学して学んだことも、すべて手放し、日本で一からスタートするということでした。長年かけて、世界で通用する語学力と知識を蓄積してきても、それらが通用しない未知の日本で、私や私の家族と共に暮らすことは、大きな覚悟がいること。私の都合で人生プランがガラリと変わり、縁のなかった日本で人生を終えるところまで決意してくれた夫に、私のできることはやって支えたい。そのためにも、私が安定した企業でしっかりと収入を得ておくことは必要なことでした。 私の両親がいる京都で、夫はまず日本語学校で学ぶことから始めました。週2日学校に通い、ほかの日は楽仙樓を手伝うように。日本語を覚えるのは早かったし、このころにはすっかり母と打ち解けて。語学学校を卒業してからは、日本の大学に2年間通い、学位も取得。根っからの「勉強好き」なのです。

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楽仙樓の歴史⑥「下鴨から四条へ」
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投稿者 三原伸子

口コミで広がったお客さま 思えば、よくない要因はたくさんありました。エアコンの効きが悪くて夏場は暑過ぎたこと。お客さまが増えるのはうれしいけれど、母ひとりでは料理を提供するのに時間がかかったこと。それが原因で、味は好きだけれど足が遠のくお客さまがいたことは事実です。 一方で、そんな行き届かないところもわかったうえで来てくれる方はたくさんいました。理由はやっぱり「おいしいから」です。そうした方たちに支えられて、さらにそこから新しいお客さまに広がり、顧客を少しずつ増やしながら、下鴨の楽仙樓はなんとか8年続きました。まだSNSが広がっていなかった時代、ほとんどはお客さまの口コミです。ほんとうにありがたいけれど、まだまだサービスの面では追いつかないことばかり。店をきれいにしたいけど、私はまだ会社員をしながら店の手伝いをしていたころなので、やりたいことが追いつきません。「いつか」と思っているうちに、8年が経っていたという感じです。それでも少しずつ利益が出るようになり、いつもお客さまで賑わっている店、という印象も定着してきました。 軌道にのったかと思えばまた、新しい問題が起こるものです。店の賑わいを知った下鴨の店の大家さんが、家賃の大幅値上げを伝えてきたのです。大家さんの目には、ずいぶんお店が繁盛しているように見えたのでしょう。多少の利益は出るようになったとはいえ、資金に余裕があったわけではありません。下鴨の店は気に入っていたし、ようやくお客さんが定着してきたころですが、仕方なく次の場所を探すことに決めました。 四条の店舗物件との出会い 2000年台の京都中心地の店舗家賃は、とんでもなく高騰していました。場所、広さともに「いいな」という物件があっても、保証金だけで300万円もかかったり、飲食店への貸し出しは嫌がられたり。飲食店は物件が汚れやすいというのがその理由ですが、それが中華料理店となればなおさらです。 いくつか候補があったなかで、母がものすごく気に入った物件がありました。四条の繁華街からすぐのところにあって、広さも十分で使いやすい。なかなか見つからなかったビルの1階で道路に面しているという点も条件にぴったりでした。当然、多くの店舗が入居を希望している物件です。ところが、ビルのオーナーはどれも断っているとのこと。それでも、母はあきらめませんでした。きっと、その物件に「ピンときた」のでしょう。「ここがいい」「ここでないと」と意地を張ったのは、意外でした。 そのとき、力になってくれたのも、また残留孤児の仲間でした。以前からうちのお店の保証人になってくれたMさんは、下鴨の店の家主と揉めた時も、間に入って話をまとめてくれました。物件探しにあたっても、ビルのオーナーとの交渉に入って説得にまわってくれたのです。Mさんは、母の人柄と一生懸命さをきちんと伝えれば、オーナーの気も変わるだろうと考え、頑なに拒んでいたオーナーを説き伏せて、母との面談の場を設けてくれました。その作戦は、大成功でした。あれだけ「飲食店には貸さない」と宣言していたオーナーが、OKを出してくれたのです。  2004年2月号「Club Fame」 腹水手術のために中国へ 2003年、四条の駅からすぐ、東洞院通に楽仙樓は移転し、再オープンしました。さまざまな飲食店が、出店したくてもできなかった好立地。これまで以上にお客さんが集まったことは、いうまでもありません。 当時まだ会社勤めをしていた私が店を手伝えるのは、週末だけ。私の夫はまだ学生だったので、代わりに学生バイトをたくさん呼んでくれて、オープン当初の忙しい時期を乗り切りました。厨房は、これまでのように母がメインで鍋をふるいます。結果をいうと、そこから2年ほどで、それまでの借金をすべて返却しました。ところが、ここまで休まずに働き続けていた母の体は、悲鳴を上げ始めていたのです。 2004年12月、たまった腹水を手術するため、母は中国に渡りました。日本の病院で診てもらったところ、手術ができないと言われてしまったためです。その上、中国で高いレベルの治療を受けるには、かなりお金がかかります。お店の移転と借金の返済で、余裕のあるお金はありませんでしたから、またもや、困り果ててしまいました。 そのときに助けてくれたのも、中国人の知人たちでした。渡航費用、手術費用を集めてくれて、母に貸してくれて、中国に送り出してくれたのです。手術をしてくれた先生も、日本で知り合った中国人の方でした。さらに、病院で新たに脾臓肥大が見つかり、また別の病院で脾臓提出手術をすることに。2005年1月13日のことでした。どうしてこの日付を覚えているかというと、私の主人の父が同じ日に亡くなったから。その前日、私の二人目の子どもの妊娠がわかったばかりでした。病気から救われた命、去っていった命、そして新しい命、同時に多くのことが起きて、運命の流れを感じずにはいられません。うまくいかないことばかりだけれど、なぜか悲観的な気持ちはありませんでした。 母の手術はうまくいったものの、すぐに仕事に復帰はできません。ほぼひとりで店を回していた母がいなくなって、代わりの料理人をお願いし、アルバイトで店を回し、なんとか切り抜けましたが、以前のようにはいきません。 せっかくゼロにした借金でしたが、またいつのまにか増えていたのです。

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