楽仙樓の歴史⑨「夫の決意、母の心変わり」

楽仙樓の歴史⑨「夫の決意、母の心変わり」

三原伸子 によって に投稿されました

 韓国→ドイツ→中国→日本

ここでもう少し、私の夫について話をさせてください。夫は韓国の生まれで、瀋陽(中国東北地方)の大学に留学に来ていたときに出会いました。韓国では中学時代にバレーボールの代表選手になり、将来が期待されたほどだったそうです。が、腰を痛めてその道を断念し、それからは勉強漬けに。韓国での大学在学中に軍隊に行き、2年8か月の兵役を終えてからドイツに留学。その後中国・瀋陽に留学に来ていました。文武両道、学歴第一主義の韓国教育をそのまま実践してきたような人なのです。

 

北京での留学中、私は妊娠8か月で日本に戻りましたが、彼はまだ大学卒業前だったので、すぐに一緒に日本に来ることはできませんでした。

 

いざ出産となっても、私は日本に戻ったばかりで頼るところもないし、そのための蓄えもないので、役所に相談して国の補助金を活用しました。京都の第二赤十字病院で出産をし、赤ん坊が4か月になったときにもう一度瀋陽に渡り、そこで夫と赤ん坊が対面。夫の大学卒業を待ってその4か月後にみんなで日本に戻り、ここから私たち新しい家族の京都での生活が始まったのです。

 

勉強、勉強でやってきた夫ですから、やはり日本でもしっかり学び、日本の大学も出ておきたい、というのが望みでした。母の店でアルバイトをしながら、週2回日本語学校で勉強し、そのあと大学に進みました。

 

子どもとの生活のため、夫の学費のため、私が会社員として働いていたことは、すでにお話ししたとおりです。子どもがいることは会社には内緒だったので、子どもが熱を出しても休むわけにいきません。夫は学校だし、そんなときは私の父や母、それも間に合わないときは姉が面倒見てくれたり、家族総協力体制で乗り切りました。

 

二人めを妊娠したときは9か月めまで働きましたが、仕事においては少しの隙もなく、すべて完璧に、とにかくやりきりました。当たり前に残業もあったけれど、とにかく立つ鳥あとを濁さず、です。それは、子どものことを隠していた引け目だったかもしれないし、私が頑張っていることを母や子どもに見せたかったのかもしれない。そして、少し意地になっていたのかもしれません。

 

驚くほどのスピード出世

私たちの結婚には渋々賛成してくれた母でしたが、夫のことを認めていたわけではありませんでした。母からしてみれば、夫の学費まで出してしんどい思いをして働くのは私ばかり。結婚して子どももできたのに、どうなっているんだと。そんな思いを折りに触れてぶつけられる夫のほうも、やりきれないものがありました。いっときは、「韓国に帰ろうか」と思ったこともありました。

 

夫は、日本語を勉強したあと、会社員になる道を選び、お店をやるという道は選びませんでした。きっと、それが母と距離を置く唯一の方法だったから。険悪な関係のまま、店で一緒に働き続けていたら、どうなっていたかわかりません。私が働いていた会社に、夫もご縁があって就職をして、短い間ですが、私たちは同じ職場で働くことになりました。実は、伸び盛りの会社のなかで、夫はいちばん早い出世を果たしました。多くの実績をつくり、大きな信頼も得ました。その頑張りは、周囲も一目置くほど。夫にしてみれば、それが自信と居場所を得る方法だったのです。これで家族のために自分のやるべきことを果たせる。自信をもって母と対峙できる。店がうまくいかなくなったとしても、自分がなんとかできる。

 

その後、私は二人めの子どもの妊娠で退社しましたが、産後8か月で再就職。そこで4年半働いてから、店に入る決心をしました。

 

そのころ、母と夫との関係は少しずつ変わっていきました。夫が会社員として成功したことで、ようやく母が認めた、ということもありますが、もうひとつ、韓国に住んでいた夫の父が亡くなったこともきっかけになりました。

 

親子の絆、家族の絆を何より大事にする韓国では、その中心である家長を亡くすことは、大きな意味をもちます。大きな悲しみがあったことも、間違いありません。喪失感のなか、夫にしてみれば、「今一緒にいる家族を大切にしよう」という思いを新たにした出来事だったのです。その「家族」とは、私であり子どもたちであり、そしてもちろん私の両親です。

 

こんな変化があって、私は2010年に店を継ぐことを決心ができました。絡まっていた家族の糸も少しずつほぐれ、店を立て直すために力を合わせることになりました。

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楽仙樓の歴史⑪「母の骨折と閉店のピンチ」
楽仙樓の歴史

楽仙樓の歴史⑪「母の骨折と閉店のピンチ」

投稿者 三原伸子

育児との両立 2010年に店を継いでから、1年以上かけて汚れを落とし、効率化や「メニューの見直しをした結果、売り上げは順調に伸びていきました。来客も売り上げも、毎年「過去最高」を更新していきました。知人たちが貸してくれた母の手術代も、店の運転資金も、すべて返すことができて、なんとか通常運転ができるようになったのが、2018年でした。   その期間は、改めて店の基盤作りをしたときでしたが、私個人では、育児との両立で苦労した時期でもありました。   店を継ぐ前、まだ会社員との二足の草鞋でやっていたころ、両親や夫の力を借りて育児をしていたときも、もちろん大変でした。店を継いでからは、今まで母ができていなかった仕事――事務的な作業や仕入れなども私の業務として加わります。そのうえ、大阪の家から京都の店との行き来もあり、いつも時間に追われている感覚でした。私たち夫婦は、ふたりが会社員だったときにローンを組み、東大阪に家を建てていました。間取りから内装まで、こだわって作った家でしたが、子どもが増えて手狭になったこともあり、店を継いで3年後に、少しでも京都に近い枚方に別の家を購入しました。   私の1日は、子どもを学校に送っていくことから始まります。そのころ、ふたりめの子ども(息子)はまだ保育園児でした。その後、8時には車で東大阪の家を出て、店に向かう途中の業務スーパーで、野菜など買い出し。店に着いたらすぐ開店の準備をして、ランチタイムには店頭でサービスをしたり、お弁当を売ったりします。ランチタイムが終わったら、お金の管理や伝票の整理。仕入れ先とのやり取りをしたり、売り上げアップのための策を練ったり。17時には京都の店を出られれば早いほうで、帰り道も2時間運転をして、いつも着くのは19時ぎりぎりでした。   往復の時間は短縮したかったけれど、高速道路を使うようになったのは、お店が黒字になってからでした。それまでは、小さな出費でも抑えたかったのです。   料理人交代 店を継いで、なんとかうまく回るようになった2012年、今度はある出来事が起こりました。料理人として働いていた母が、テラスで転倒して怪我をしてしまったのです。   それはランチの準備中でした。すぐに病院に行くように言ったものの、「ランチタイムやから」そのまま働くと言い張ります。私はすぐにでも店を閉めたほうがいいと思ったのですが、母は聞きません。結局、その日のランチタイムは高めの椅子に腰をかけて、厨房の仕事を続けました。   夜になって、仕事を終えた父が迎えに来て、車で病院に連れて行ったところ、脚の付け根の骨折がわかり、それから1か月入院することに。病院に行くまでの時間、ものすごく痛かっただろうに、仕事に穴をあけてはならないと、ランチタイムを乗り切った母の精神力には、頭が上がりません。でも、母にしてみれば、痛みを堪えて仕事をするよりも、仕事を休むことのほうが、きっと辛いことなのでしょう。   店の料理を作る母が1か月も休むとなったら、もう店は閉めるしかないのか。もしかしたら楽仙樓は終わってしまうのか、と目の前は真っ暗になりました。それでも家賃は払わなければならないし、従業員の給料だってある。そして何よりお店の料理を楽しみにしてくれているお客様がいる。そう思うと、お店をやめるわけにはいかないと、すぐに思い直し、従業員を集めて対策会議をしました。そして、母が日本に来るときの手紙の一節を改めて思い出していました。   「一切の困難を克服する覚悟です」   今度は、私がその覚悟をする番です。さて、母が担当していた調理を誰が代わりにやるか。そこで手をあげてくれたのが、以前母と一緒に厨房で手伝ってくれたことのある女性でした。彼女の得意料理は点心でしたが、母の手伝いをしながら楽仙樓の料理を覚え、主なものは作ることができました。私たちほかのスタッフも、味の面では信頼を寄せていました。ただ、母のようなものすごいスピードでたくさんの料理をつくるのは難しい。そこで、ランチのメニュー数を絞ったり、効率よく作ることができる「チャーハンと水餃子」のセットを始めたりしたのです。これが、後のランチタイムの主力メニューになったことは、すでに紹介したとおりです。   そして、彼女の夫・賀さん――当時はまだ別のレストランで働いていました――が、後に母の跡を継いで、楽仙樓のメインの料理人となります。骨折の治療を終えて店に復帰した母でしたが、やはり以前と同じペースで働くことはできません。もちろん本人は、「大丈夫や」と言い続けるけれど、以前のように長時間厨房に立つのは辛そうです。それを見かねた私が、レストランで働いていたその料理人を引き抜き、店の主力として加わってもらったのです。...

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楽仙樓の歴史⑩「店舗の改革」
楽仙樓の歴史

楽仙樓の歴史⑩「店舗の改革」

投稿者 三原伸子

メニューを見直し 店のテラスがきれいになって、店内も厨房も明るく清潔になると、お客さまも入りやすくなったのか、店は活気を取り戻しました。これまでの常連さんに加え、店の前を通った人の目に止まって入って来たり、そこからさらに口コミで広がったりして、掃除の疲れも吹き飛ぶうれしさでした。お金をかけて大きなリニューアルをしたわけではないけれど、この場所で16年蓄積された汚れを落とし、自分たちの手でコツコツと磨き、新しい空気を吹き込めば、店も息を吹き返すのだとわかりました。   さらに、メニューをわかりやすく作り直して外から見えるようにしたり、店先でお弁当販売も始めました。このお弁当が周辺で働く人たちに大人気を博し、ランチタイムだけで1日80個ほど売れるようになったのです。   また、以前は「コース」というと母の「お任せ」で、その日によって作るものが変わっていました。常連さんならまだしも、新しいお客さんにとっては頼みにくい。そこで、内容の異なる2〜3種類のコースをつくり、内容も明確にメニューに提示することにしました。   ドリンクの種類も少なかったので、定番のドリンクのほかにカクテルなども増やして、お客さまの好みで選べるようにそろえました。ただ、カクテルとなるとカタカナのメニュー表記が多くなり、中国人のスタッフにしてみると読みにくい。漢字は読めてもカタカナはとても難関なのです。そこで、メニューにあるお酒ひとつずつに番号をつけ、注文時に間違えないようにしました。カクテルのレシピも、使うお酒を番号でわかるようにして、キッチンにあるお酒の瓶にも同じ番号をつけておけば、誰でも間違いなく作ることができます。   ドリンクが増えれば飲み放題のコースを作ることができますし、そうすると宴会として利用してくださるお客さまも増えます。宴会利用は、大きな売り上げアップにつながりました。   味へのこだわりと効率化 もちろん、味にもこだわりました。母がひとりで料理をこなしていたときは、ごはんを炊くのも料理の味つけも、長年の「勘」に頼っていました。それがうまくいく時があれば、いかない日もある。ましてや、別の人が代わりに作る日は、母とは違った味になってしまうこともある。   チャーハンの美味しさを決めるごはんは、母の「勘」ではなく、誰がやっても同じように美味しく炊けるように工夫しました。お米屋さんから納入してもらう時点で、これまでより小さい5キロ袋にしてもらい、それを一度に炊くことにして、水の量も決めておけば、毎回ブレることはありません。大袋で買っていたときのように、毎回計量する手間も省けます。   お米は、チャーハンに適したものをいくつも食べ比べて、その中から滋賀県産のキヌヒカリという品種を使っています。一般には美味しいとわれるコシヒカリなどは、粘りが強くてチャーハンには向かないので、炒めたときに程よくパラっとなるものが理想的なのです。   口コミサイトなどで「ご飯が美味しい」というコメントが増えていったのは、その後からです。   餃子の提供のかたちも、少しずつ変わっていきました。ランチのいちばん人気は「チャーハンと水餃子」のセットですが、それ以外のランチメニューにも名物の水餃子をつけていました。でも、忙しいランチタイムでは、提供する料理に合わせて、あらかじめ茹でておいた餃子を温め直すという方法を取らざるを得ません。食べるまでに少しでも時間が経つと、ふやけたり伸びたりして、美味しさは半減してしまいます。つるんとした餃子の皮が自慢の楽仙樓なのに、これでいいのか。長い間頭を悩ませていたことでしたが、中途半端なものを提供するくらいならと、「チャーハンと水餃子」セット以外は、セットに餃子をつけるのをやめました。その代わり、プラス160円(現在は250円)で茹でたての水餃子2個をオーダーできるようにしたのです。   ランチタイムは、4人がけのテーブルを2人ずつ×2つに変更するなどして、多くのお客様が入るように、さらにスタッフが動きやすくなるように、変更もしました。   こうしたすべての改革は、私の力だけではとうてい叶うことではなく、家族や従業員の協力はもちろん、かつて働いていた会社とのご縁も大きく働きました。...

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