韓国→ドイツ→中国→日本
ここでもう少し、私の夫について話をさせてください。夫は韓国の生まれで、瀋陽(中国東北地方)の大学に留学に来ていたときに出会いました。韓国では中学時代にバレーボールの代表選手になり、将来が期待されたほどだったそうです。が、腰を痛めてその道を断念し、それからは勉強漬けに。韓国での大学在学中に軍隊に行き、2年8か月の兵役を終えてからドイツに留学。その後中国・瀋陽に留学に来ていました。文武両道、学歴第一主義の韓国教育をそのまま実践してきたような人なのです。
北京での留学中、私は妊娠8か月で日本に戻りましたが、彼はまだ大学卒業前だったので、すぐに一緒に日本に来ることはできませんでした。
いざ出産となっても、私は日本に戻ったばかりで頼るところもないし、そのための蓄えもないので、役所に相談して国の補助金を活用しました。京都の第二赤十字病院で出産をし、赤ん坊が4か月になったときにもう一度瀋陽に渡り、そこで夫と赤ん坊が対面。夫の大学卒業を待ってその4か月後にみんなで日本に戻り、ここから私たち新しい家族の京都での生活が始まったのです。
勉強、勉強でやってきた夫ですから、やはり日本でもしっかり学び、日本の大学も出ておきたい、というのが望みでした。母の店でアルバイトをしながら、週2回日本語学校で勉強し、そのあと大学に進みました。
子どもとの生活のため、夫の学費のため、私が会社員として働いていたことは、すでにお話ししたとおりです。子どもがいることは会社には内緒だったので、子どもが熱を出しても休むわけにいきません。夫は学校だし、そんなときは私の父や母、それも間に合わないときは姉が面倒見てくれたり、家族総協力体制で乗り切りました。
二人めを妊娠したときは9か月めまで働きましたが、仕事においては少しの隙もなく、すべて完璧に、とにかくやりきりました。当たり前に残業もあったけれど、とにかく立つ鳥あとを濁さず、です。それは、子どものことを隠していた引け目だったかもしれないし、私が頑張っていることを母や子どもに見せたかったのかもしれない。そして、少し意地になっていたのかもしれません。
驚くほどのスピード出世
私たちの結婚には渋々賛成してくれた母でしたが、夫のことを認めていたわけではありませんでした。母からしてみれば、夫の学費まで出してしんどい思いをして働くのは私ばかり。結婚して子どももできたのに、どうなっているんだと。そんな思いを折りに触れてぶつけられる夫のほうも、やりきれないものがありました。いっときは、「韓国に帰ろうか」と思ったこともありました。
夫は、日本語を勉強したあと、会社員になる道を選び、お店をやるという道は選びませんでした。きっと、それが母と距離を置く唯一の方法だったから。険悪な関係のまま、店で一緒に働き続けていたら、どうなっていたかわかりません。私が働いていた会社に、夫もご縁があって就職をして、短い間ですが、私たちは同じ職場で働くことになりました。実は、伸び盛りの会社のなかで、夫はいちばん早い出世を果たしました。多くの実績をつくり、大きな信頼も得ました。その頑張りは、周囲も一目置くほど。夫にしてみれば、それが自信と居場所を得る方法だったのです。これで家族のために自分のやるべきことを果たせる。自信をもって母と対峙できる。店がうまくいかなくなったとしても、自分がなんとかできる。
その後、私は二人めの子どもの妊娠で退社しましたが、産後8か月で再就職。そこで4年半働いてから、店に入る決心をしました。
そのころ、母と夫との関係は少しずつ変わっていきました。夫が会社員として成功したことで、ようやく母が認めた、ということもありますが、もうひとつ、韓国に住んでいた夫の父が亡くなったこともきっかけになりました。
親子の絆、家族の絆を何より大事にする韓国では、その中心である家長を亡くすことは、大きな意味をもちます。大きな悲しみがあったことも、間違いありません。喪失感のなか、夫にしてみれば、「今一緒にいる家族を大切にしよう」という思いを新たにした出来事だったのです。その「家族」とは、私であり子どもたちであり、そしてもちろん私の両親です。
こんな変化があって、私は2010年に店を継ぐことを決心ができました。絡まっていた家族の糸も少しずつほぐれ、店を立て直すために力を合わせることになりました。