楽仙樓の歴史⑥「下鴨から四条へ」

楽仙樓の歴史⑥「下鴨から四条へ」

三原伸子 によって に投稿されました

口コミで広がったお客さま


思えば、よくない要因はたくさんありました。エアコンの効きが悪くて夏場は暑過ぎたこと。お客さまが増えるのはうれしいけれど、母ひとりでは料理を提供するのに時間がかかったこと。それが原因で、味は好きだけれど足が遠のくお客さまがいたことは事実です。


一方で、そんな行き届かないところもわかったうえで来てくれる方はたくさんいました。理由はやっぱり「おいしいから」です。そうした方たちに支えられて、さらにそこから新しいお客さまに広がり、顧客を少しずつ増やしながら、下鴨の楽仙樓はなんとか8年続きました。まだSNSが広がっていなかった時代、ほとんどはお客さまの口コミです。ほんとうにありがたいけれど、まだまだサービスの面では追いつかないことばかり。店をきれいにしたいけど、私はまだ会社員をしながら店の手伝いをしていたころなので、やりたいことが追いつきません。「いつか」と思っているうちに、8年が経っていたという感じです。それでも少しずつ利益が出るようになり、いつもお客さまで賑わっている店、という印象も定着してきました。


軌道にのったかと思えばまた、新しい問題が起こるものです。店の賑わいを知った下鴨の店の大家さんが、家賃の大幅値上げを伝えてきたのです。大家さんの目には、ずいぶんお店が繁盛しているように見えたのでしょう。多少の利益は出るようになったとはいえ、資金に余裕があったわけではありません。下鴨の店は気に入っていたし、ようやくお客さんが定着してきたころですが、仕方なく次の場所を探すことに決めました。


四条の店舗物件との出会い

2000年台の京都中心地の店舗家賃は、とんでもなく高騰していました。場所、広さともに「いいな」という物件があっても、保証金だけで300万円もかかったり、飲食店への貸し出しは嫌がられたり。飲食店は物件が汚れやすいというのがその理由ですが、それが中華料理店となればなおさらです。


いくつか候補があったなかで、母がものすごく気に入った物件がありました。四条の繁華街からすぐのところにあって、広さも十分で使いやすい。なかなか見つからなかったビルの1階で道路に面しているという点も条件にぴったりでした。当然、多くの店舗が入居を希望している物件です。ところが、ビルのオーナーはどれも断っているとのこと。それでも、母はあきらめませんでした。きっと、その物件に「ピンときた」のでしょう。「ここがいい」「ここでないと」と意地を張ったのは、意外でした。


そのとき、力になってくれたのも、また残留孤児の仲間でした。以前からうちのお店の保証人になってくれたMさんは、下鴨の店の家主と揉めた時も、間に入って話をまとめてくれました。物件探しにあたっても、ビルのオーナーとの交渉に入って説得にまわってくれたのです。Mさんは、母の人柄と一生懸命さをきちんと伝えれば、オーナーの気も変わるだろうと考え、頑なに拒んでいたオーナーを説き伏せて、母との面談の場を設けてくれました。その作戦は、大成功でした。あれだけ「飲食店には貸さない」と宣言していたオーナーが、OKを出してくれたのです。

 2004年2月号「Club Fame」



腹水手術のために中国へ


2003年、四条の駅からすぐ、東洞院通に楽仙樓は移転し、再オープンしました。さまざまな飲食店が、出店したくてもできなかった好立地。これまで以上にお客さんが集まったことは、いうまでもありません。


当時まだ会社勤めをしていた私が店を手伝えるのは、週末だけ。私の夫はまだ学生だったので、代わりに学生バイトをたくさん呼んでくれて、オープン当初の忙しい時期を乗り切りました。厨房は、これまでのように母がメインで鍋をふるいます。結果をいうと、そこから2年ほどで、それまでの借金をすべて返却しました。ところが、ここまで休まずに働き続けていた母の体は、悲鳴を上げ始めていたのです。


2004年12月、たまった腹水を手術するため、母は中国に渡りました。日本の病院で診てもらったところ、手術ができないと言われてしまったためです。その上、中国で高いレベルの治療を受けるには、かなりお金がかかります。お店の移転と借金の返済で、余裕のあるお金はありませんでしたから、またもや、困り果ててしまいました。


そのときに助けてくれたのも、中国人の知人たちでした。渡航費用、手術費用を集めてくれて、母に貸してくれて、中国に送り出してくれたのです。手術をしてくれた先生も、日本で知り合った中国人の方でした。さらに、病院で新たに脾臓肥大が見つかり、また別の病院で脾臓提出手術をすることに。2005年1月13日のことでした。どうしてこの日付を覚えているかというと、私の主人の父が同じ日に亡くなったから。その前日、私の二人目の子どもの妊娠がわかったばかりでした。病気から救われた命、去っていった命、そして新しい命、同時に多くのことが起きて、運命の流れを感じずにはいられません。うまくいかないことばかりだけれど、なぜか悲観的な気持ちはありませんでした。


母の手術はうまくいったものの、すぐに仕事に復帰はできません。ほぼひとりで店を回していた母がいなくなって、代わりの料理人をお願いし、アルバイトで店を回し、なんとか切り抜けましたが、以前のようにはいきません。


せっかくゼロにした借金でしたが、またいつのまにか増えていたのです。

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楽仙樓の歴史⑯「30周年を迎えて」
楽仙樓の歴史

楽仙樓の歴史⑯「30周年を迎えて」

投稿者 三原伸子

  独学でSEO対策やSNS活用をやってきた私が、DMMチャットブースト(公式LINEアカウント運営のサービス)を通じてマーケティングを学び始めたのには、2024年の「楽仙樓30周年記念」に向けてなにかやりたいという思いもあったからでした。それまでやってきた戦略の上に、30周年ならではの「特別なこと」をやりたかった。そのために必要な知識を身につけたかったのです。 3カ月間の講座ではたくさんのことを学びました。商売をするうえでは、ファンダメンタルズ分析(経済状況や財政状況などの基礎的な指標をもとに、株価や為替の将来の値動きを予測するマーケティング手法)が大切であること。顧客を増やすにはカスタマージャーニー(顧客が商品を知って購入に至るまでの行動や感情の変化)が必要で、それにはカスタマージャーニーマップをつくること。相手が何を感じ、どんな気持ちで行動起こし、購入に至るか、至らない場合は何をすればいいのか、とにかく考えて考えて考えるのです。 とても難しくて苦戦しましたが、大きな気づきもありました。 私はこれまで餃子を売りたい気持ちが先立って、お客様の立場になって考える余裕がなかったのではないか。このサービスは、このメニューは、本当にお客様が欲しているものなのか。認知してもらうためにやるべき施策を十分にやってきたか。正直なところ、お店を回すことだけで精一杯で、それ以外のことを考える余裕はありませんでした。でも、情報戦がビジネスを左右する今、そうも言っていられません。 一緒にマーケティングを学んでいる仲間たちにわからないことを聞き、指摘は素直に受け入れ、新しいビジネス思考を獲得していくプロセスは、私にとって始めての経験でした。 30周年記念イベント 思考が柔軟になると、これまでやってきたネットでの対策やSNSを、ただ継続するのではなく、もっと立体的に活用できるのではないかと思うようになります。たとえば、30周年記念のイベントも、自分たちだけでやるのではなく、ほかの店舗を巻き込んだものにしたり。そのひとつが、2024年8月に実施した、京都のボロネーゼ専門店BIGOLIさんとのコラボでした。 楽仙樓の麻辣(マーラー)スープをBIGOLIさんに提供し、麻辣ボロネーゼを1カ月間限定の特別メニューとして扱ってもらいました。そのメニューを食べた方には楽仙樓で使える30%オフのお食事券をさしあげて、両方の店に足を運んでもらおうというキャンペーンです。楽仙樓では、BIGOLIさんのボロネーゼを使ってボロネーゼ天津丼やボロネーゼジャージャー麺などを日替わりで提供し、BIGOLIさんで使えるワンドリンクチケットも発行しました。 その情報をお店のインスタでも上げていき、また両店舗を訪れたお客様もSNSで発信してくださる。盛り上がりの好循環ができて、お客様との新たなコミュニケーションも生まれました。 また、コカ・コーラさんとのコラボ企画では、コカ・コーラさんの製品を必ず1点は使うという条件で、アルバイト従業員6人に各々自分で考案したしたオリジナルカクテルを作ってもらい、ネーミングもし、それを自分で売り込むというキャンペーンを行いました。ただ飲んでもらうだけでは面白くないので、6種類コンプリートすると30周年記念で作成したオリジナル扇子が貰えるという特典も加えました。さらに、自分のカクテルを一番沢山販売したアルバイト従業員には、コカ・コーラさん協賛で「USJへのペア招待券」が貰えるというご褒美も付け加えました。 これは予想外に盛り上がり、お客様に楽しんで貰えるだけでなく、アルバイト従業員が自分のカクテルをたくさん飲んでもらうために、積極的に接客し、お客様と自然にコミュニケーションを取り始めるようになり、飲んでもらうための戦略をも考えるようになったのです。 お客様はそうやって一生懸命接客している従業員に共感し、応援するために扇子のプレゼント度外視で一人の従業員のものを何杯も飲んでくれたり、扇子獲得のために何回も来店し、コンプリートを目指してくれたり、これほど双方にとって楽しい、WIN WINの企画はないなあと思った、楽しい企画になりました。 そのほか、10月にはハロウィンにちなんで水餃子の中にカボチャの餡が入ったものをランダムに忍ばせておき、カボチャに当たった人に、ドリンクサービスするというお楽しみも。 年が開けて2025年1月には、以前から企画していた楽仙樓の30周年特別コース料理と音楽を組み合わせたイベントを行いました。バイオリンとチェロの生演奏を聞きながら、この日のために特別に準備した中華フルコースを提供するというもので、もちろんこれも初めての試みです。楽仙樓を愛してくださっているお客様20名をお迎えした極上の時間は、好評のうちに終了しました。そればかりでなく、30周年という記念すべきタイミングを共有したお客様とは、特別な絆も生まれたような気がします。 楽仙樓の3つの柱 30周年記念のイベントをひと通り終えた今、これまでの経験とマーケティングをしっかり絡めて、楽仙樓の未来図を描いています。私の中ではとてもはっきりした絵として頭のなかにあり、それをいかに実現していくかが、これからの課題です。 ひとことで言うと、楽仙樓を3つの柱で支えていくこと。柱の一本めは、母の代からずっとやってきた店舗でのサービス。ここには、今私たちが力を入れているテイクアウトも含まれます。二本めの柱は、百貨店をはじめさまざまな催事での販売など、つまり外販事業です。そして三本めが通販事業で、2024年11月には販売サイトをリニューアルし、商品の写真も新たに撮影し直しました。その後、売り上げは順調に伸びて、今後さらに大きくなる可能性を秘めていると感じています。ただ、どれも手を抜かずにコツコツと地道に、やるべきことを継続することなしには、実現できません。楽して近道できたら、どんなにいいかと思うことも、正直あります。少しでも楽をしようとすれば、たちまちお客様は離れていくし、新しい挑戦を怠れば継続の道さえ難しくなる。結局、近道なんてないのです。 楽仙樓は京都の一店舗ですが、私の描く未来図では、手包み工房とともに、3つの大きな店舗があるというイメージです。世の中で起こっている、労働者の高齢化や人手不足は楽仙樓でも同じく起こっていて、それを乗り切るためにも、実店舗以外の販売チャネルを確立していく必要があります。 ただ、忘れてはならないのは、これまで楽仙樓を支えてきたのは、真摯に仕事と向き合ってきた母の力だったということ。一切手を抜かず、誠心誠意取り組み多くの困難を乗り越えてきた母の精神力なしには、ここまで継続することはできませんでした。ネットやSNSがどんなに主流になっても、マーケティング戦略を練っても、揺らぐことのない事実です。 表向きはすごく厳しいけれど、その根っこはとても情に厚く人に優しい母。それを受け継いでいるかぎりは、これから何があっても、乗り越えていけると思っています。  

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楽仙樓の歴史⑮「工房オープン」
楽仙樓の歴史

楽仙樓の歴史⑮「工房オープン」

投稿者 三原伸子

「手包み工房 楽仙樓」 2021年、念願の工房兼テイクアウト専門店「手包み工房 楽仙樓」がオープン。コロナ禍の影響をまだ引きずっていた時期ではありあましたが、念願の工房をもったことで、楽仙樓は未来に向かって、新たなスタートを切りました。 それは、表から見えることにとどまらず、時間とお金をかけてこだわった、工房のスペース拡大と新しい設備によるところが大きかったといえます。力を入れ始めていたテイクアウトの水餃子に加えて、中華丼、ワンタン麺、肉まん、あんまんなど、一気にメニューを増やしました。特に、急速冷凍ができる大型冷凍庫の導入により、多くの餃子をつくりたての状態で保存することができるようになったので、通販のための各種セットや、既存のセロリ餃子の皮にセロリの絞り汁を皮に練り込み、うすい緑色をした餃子にグレードアップしたりしました。ちょっと特別感がありますし、ほんのりセロリの香りが漂う、今では人気商品となっています。 同時に、73歳になった母は毎日料理をつくることが体力的に難しくなってきたのも事実でした。そこで週に2日、餃子づくりをする日にだけ出勤し、スタッフと一緒に1日2000個をつくるようになりました。具材をカットしたり混ぜたりするのは機械で行いますが、餃子の皮を伸ばし、包むのは人の手でしかできません。午前中にスタッフが餃子の餡と皮の仕込みをしておき、午後2時半くらいから母を筆頭にスタッフ(日によって異なりますが、8人ほど)が集まって一斉に包み始めます。その様子を見た人は、あまりの手の早さに驚きますが、これが母がずっとやってきて体に染み込んだスピードです。そうやって、午後5時には2000個を仕上げます。 餃子作りの様子 ここで、新しく導入した大型の急速冷凍庫が頼りになります。餃子の皮はすぐに乾きやすく、乾くと破れやすくなるのが特徴です。急速冷凍庫でも風量が強すぎると餃子にヒビが入ってしまうということを、かつて経験してきたので、工房のリニューアル時には、風量調節ができるものをこだわって導入しました。業務用の大きな急速冷凍庫は驚くほど値段が張りますが、これだけは妥協できませんでした。コロナの影響による助成金を厨房設備に使うことはできないので、また別に借入れをすることになったのは、予定外でしたが…。 SEO対策、SNSの強化 店内だけでなく、テイクアウトや通信販売も順調に伸びていきましたが、それまでの借入れを返済していくことを考えると、いつもギリギリの状態です。銀行への返済の一部は、2年ほど先に延ばしてもらい、とにかくコロナ禍で落ち込んだ売り上げをリカバーし、足元のビジネスを固めることに注力しました。 新しい商品や商流は少しずつ増えていきましたが、また別の新しいことを始めないといけないということを感じていました。それが、WebサイトとSNSの活用でした。コロナ禍で時間ができたときから少しずつ始め、Googleやekitan、そのほかグルメサイトへの情報登録は、自分なりに勉強しながら充実させていきました。お客様やこれからお客様になる方が検索したときに、求める情報がすぐ得られるように、そして感染対策や衛生管理などに安心して来店してもらえるように。さらには、楽仙樓のホームページにはお店の歴史や餃子づくりのこだわりなども載せて、ファンになってもらう工夫も重ねました。インスタを開設してその日のランチメニューを発信したり、公式LINEアカウントも始めました。 ただ、このあたりまではあくまでも私の独学で自分なりのやり方です。これから先は、しっかりとマーケティング理論にのっとった、次のステップが必要になると感じていました。そこで、DMMチャットブースト(公式LINEアカウント運営のサービス)をとおして、マーケティングの知識を強化するプログラムに参加することにしました。仕事は忙しさを取り戻していたけど、オンラインで受講できるし、その後も必要なら仲間とチャットでやりとりできたり、最新情報をキャッチアップすることもできます。…と今になってみれば、そういうことになりますが、そのときは「どんなんかわからへんけど、とにかくやってみよう」という気持ちでした。  

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