楽仙樓の歴史③「エンジニアとしての父」

楽仙樓の歴史③「エンジニアとしての父」

三原伸子 によって に投稿されました

<3> 日本に戻って


エンジニアとしての父


父とともに日本に帰って来たとき、私は4歳でした。来日して4日目から保育所に入れられ、何もわからないまま通うことに。

 

入園当初の私

 入園式

 

両親は中国残留邦人が最初に入る施設に入り、半年間、日本の習慣や日本語の勉強をしました。当時すべてボランティアで行われていました。父は中国ではエンジニアの仕事をしていたのですが、実はその前はホテルのシェフをしていたことがあったそうです。そこでの経験を生かすため、ボランティアの方たちの協力のもと、日本に来て早々、中華料理店のシェフとしてお店を開くことになりました。そのお店は当時の新聞でも紹介され、瞬く間に注目されました。しかし、そこには大きな落とし穴があったのです。

 

当時の新聞記事

 

1970年代、中国にいたころの父は、ホテルで料理人の見習いをしていたことがありました。日本に来てからは、料理人としての腕があったことで仕事が得られ、家族の支えとなったことは事実です。ただ、労働環境は今では考えられないほど悪く、人としてというより「単なる労働力のひとつ」として扱われたことは明らかでした。それでも、中国からの帰国者のなかでは、父の置かれた状況は「まだまし」だったようです。


次の職場は、京都の機械メーカーでした。かつて、中国でエンジニアのキャリアが長かったことが評価され、その後定年まで働くことに。手に職があったことが、よいように利用されてしまうことがあれば、こうして身を助けることもある。機械メーカーでの仕事は、父の身を助け、生涯を捧げるものになりました。


一方、父とともに日本に来た母は、日本語をまったく話せないところからのスタートでした。家族のために始めたのは、日本語を学びながら、掛けもちでアルバイトをすること。早朝に家を出て中華料理店でランチまで働き、その後別の会社でパートタイムをしたら、夜はまた別の中華料理店で働いて。時間があいたときは、ホテルのベッドメイキングなどもやっていたそうです。バスや電車の終電がなくなるまで仕事をしていたので、父が車でいつも迎えに行くという生活でした。


アルバイトで朝から深夜まで働いていた母に代わり、家族の食事は父が作る、というのが我が家の光景でした。だから、私たちききょうだいは、母に遊んでもらった記憶がほとんどありません。ふだんの食事を作ってくれたのも、遊園地やバーベキューに連れていってくれたのも、すべて父でした。

 

餃子でコミュニケーション

 

そのころ住んでいた団地(中国からの帰国者が多く住んでいた京都の岩倉団地)では、ときどき帰国者間の交流がありました。親戚が我が家に来て、懐かしい話に花を咲かせることもありました。そのときは、母の出番です。中国にいたときから得意だった水餃子を大量に作り、みんなに振る舞うのです。集まりがなくても、隣近所に配って回り、そのたびに「おいしい」と言ってもらえることが、どれほどうれしかったことか。母の餃子をひとくち食べれば、誰もが笑顔になって、仲良くなれる。いつしか、団地のみんなが、母の水餃子を楽しみにするほどになりました。日本語が苦手だった母にとって、餃子をみなさんに振る舞うことは、コミュニケーションのひとつだったのです。

 

親戚と自宅で食事(おじいちゃんの弟夫婦)

 

やがて、私が通っていた小学校にも餃子の輪が広がり、餃子教室が始まりました。見様見真似で覚えた私も手伝いながらやった、小学校での餃子教室は大盛況。母の教室は、私が中学生になってからも続きました。

 

自宅で餃子教室(通っていた病院の看護師さん)

こうして人気が高まった母の水餃子が、現在の楽仙樓の原点です。材料はシンプルに野菜と肉だけれど、厚めでもっちりとした皮が特徴で、今もそれは変わっていません。

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コメント

  • お母様の水餃子が言葉を超えた絆を生み出し、お父様の努力が家族を支えた姿に胸を打たれました。Telkom University Jakarta

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楽仙樓の歴史⑧「自分の手で店を再起」
楽仙樓の歴史

楽仙樓の歴史⑧「自分の手で店を再起」

投稿者 三原伸子

店を継ぐ決意 楽仙樓を手伝いつつも、私が会社員として働いていたの期間は10年間ほどありました。その間に母の入院があり、療養期間があり、その間は姉や夫も手伝い、アルバイトも含め4人ほどで店を回していました。ただ、人手がかかる割には、母がやっていたときほど売り上げは上がりません。   外食に関しては素人同然だった夫でさえ、「このままやったらお母さんの店、つぶれてしまうで」「あの餃子の味を途絶えさせていいんか」と心配し始めました。そう言われると、ここまでの母の頑張りを無にしてしまうことはできません。支えてくれた母の餃子ファンにも申し訳ないし、本当はまだ続けたい母の思いにも反してしまいます。かつては母に結婚を反対され、うちの商売とは一切関係のなかった夫の言葉で、まさか店の運命が変わるとは。   そのころ、こんな出来事もありました。2007年、中国から甥っ子(正確には、母の腹違いの弟の息子)を呼び寄せ、料理人として雇い、京都郊外の六地蔵に新しい店をオープンしたのです。母が中国・北京で手術入院をしていたとき、腹違いの弟がハルビンから駆けつけ、1カ月付き添って看病してくれたそうで、その息子を呼び寄せることは、あのときの恩返しの意味もあったのでしょう。甥はしばらく中国で料理修行をしてから来日し、その後楽仙樓で母のもと働いていました。その間に、六地蔵に居抜きの物件があると聞いた母が、そこで新店をオープンし、甥に任せることにしたのです。が、ことは思ったほどはうまくいきませんでした。   六地蔵店 2007年5月号「C.F」   オープンしてから甥の新店を見に行くと、楽仙樓の面影はなく、私たちがこだわっていた店内のセンスも、踏襲されることはありませんでした。私と主人はいてもたってもいられなくなって、飾り棚を手作りし、テーブルクロスを縫いビニールシートをかぶせて、なんとか体裁をつくろいましたが…。立地の難しさもあり、3年たたないうちに閉店することになりました。いったんは中国に戻ったものの、今はまた私のもとで働いています。 まだあった300万円の借金   転換期が訪れていることを感じ、私は会社員を辞める決意を固め、母の後を継ぐことを決めました。四条に店が移転してから7年後、2010年9月のことでした。私は35歳、母は62歳でした。本当はもう引退を考えてもいい年齢にもかかわらず、療養後の母はもう一度餃子づくりに復帰、また以前のようにすべての料理をつくるようになりました。 店を継ぎ、本格的に働き始めてみると、愕然とすることばかり。「終わってる…」と思いました。   客席のテーブルは油でべたべた。せっかくのテラス席もぼろぼろで誰も座れない状態です。厨房の床は油まみれで、滑って転ばないように歩くだけで精いっぱい。冷蔵庫も冷凍庫もパンパンで、何がどこにあるかわかりません。ちょっと中を見れば、賞味期限が切れている材料もたくさん詰まっている。   こんな店で食べたくないし、働きたくない。何から、どうやって片付けていくか、途方に暮れてしまいました。さらに、母は売り上げを計算することまで手が回っていなかったこともわかりました。それも仕方ありません。すべての料理、すべての餃子を手づくりするのに精一杯で、お金のことを気にする余裕すらなかったのです。   いっときはすべて返済した借金も、いつの間にかまた300万円ほどにふくらんでいました。それを知ったときは愕然としましたが、ここで背中を押してくれたのも、夫でした。   「いろいろ考えても仕方ない。俺の貯金で300万円返したろ」   ひとつひとつ磨き上げる 夫の協力で借金を返し、日々の売り上げの中から少しずつ店の改修に費用を回しながら、「食べたくない」「働きたくない」店を、なんとか元の「食べたくなる」店に戻していく挑戦が始まりました。お金のかかる大規模な修理はできません。私たちにできるのは、「自分たちの手で」少しずつきれいにしていくことだけ。...

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楽仙樓の歴史⑦「学生結婚と夫の決意」
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結婚に大反対だった母 下鴨から四条に店舗を移し、商売がうまく回り出したかと思ったところで、母の手術。中国に渡って腹水を抜く手術をして、幸い成功したものの、帰国後も闘病生活を送り、1年半ほどお店に出ることができませんでした。姉が料理人を雇って、なんとか店を回してくれましたが、母にしてみれば。せっかくここまでやってきたのに…と、どれほど悔しかったことでしょう。ずっと隣で見てきた私も、もちろん同じ気持ちです。でも、この時点ではまだ、私はお店を継ぐ決意はできていませんでした。 ここで少し、私の話をさせてください。 早くから母の店を手伝いながらも、両親の母国である中国の言葉をきちんと勉強したいという思いがあり、20歳のとき(1996年)から5年にわたって中国に留学しました。はじめは遼寧省の瀋陽で学び、その後大学に合格して4年間北京で過ごしました。予定外だったのは、留学先で出会った韓国籍の男性と学生結婚し、留学中に子どもを授かったことでした。本当はもっと長く中国にいたかったけれど、1998年に出産のため日本に帰国。地元・京都で娘を出産しました。 ちなみに、この結婚に母は初めから大反対。私が絶対に苦労するからといって激怒して、留学先の北京まで押しかけて来そうな勢いでした。一方、義父のほうは手がけていたビジネスで韓国と中国を行き来し、留学中の私もそれを手伝ったりして関係は良好でした。母がどうやって結婚を許したかというと、それは「子どもができた」から。中国から母に妊娠を告げようと電話をしたとき、意外にも「生むしかないんやろ」という穏やかな反応。やはり、孫ができるということは、何にも代えられない喜びなのでしょう。激怒されるのを覚悟で電話をした私は、母の態度の急変に、拍子抜けしてしまったほどでした。 子どものことを隠したまま就職 まだお店の収益は安定していなかったころですから、出産後の私は企業に就職する道を選びました。小さな子どもを育てながらの就職活動は、まだ不利になることが多かったころ。私は子持ちであることを隠して面接を受け、合格したあともしばらく隠して働き続けていました。 当時、京都の自宅から大阪まで1時間以上かけて通い、娘のお迎えは会社勤めの父が帰りに行ってくれました。私が帰るのは夜遅くなで、娘はいつもお店の2階で遊んでいたものです。お店を気にかけながらも、娘がまだ小さくても、私がフルタイムで働きたかったのは、お店の売り上げを補填することもありましたが、そのときまだ学生だった夫を扶養するためでもありました。 私との結婚、そして日本帰国によって、初めて日本に住むことになった夫。それは、韓国で学んだことも、ドイツや中国に留学して学んだことも、すべて手放し、日本で一からスタートするということでした。長年かけて、世界で通用する語学力と知識を蓄積してきても、それらが通用しない未知の日本で、私や私の家族と共に暮らすことは、大きな覚悟がいること。私の都合で人生プランがガラリと変わり、縁のなかった日本で人生を終えるところまで決意してくれた夫に、私のできることはやって支えたい。そのためにも、私が安定した企業でしっかりと収入を得ておくことは必要なことでした。 私の両親がいる京都で、夫はまず日本語学校で学ぶことから始めました。週2日学校に通い、ほかの日は楽仙樓を手伝うように。日本語を覚えるのは早かったし、このころにはすっかり母と打ち解けて。語学学校を卒業してからは、日本の大学に2年間通い、学位も取得。根っからの「勉強好き」なのです。

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