楽仙樓の歴史⑫「カタログ販売1万個売り上げ記録」

楽仙樓の歴史⑫「カタログ販売1万個売り上げ記録」

三原伸子 によって に投稿されました


テレビ、カタログ販売の威力

母ひとりでやっていた餃子づくりを、スタッフみんなで一緒にやることになったものの、レシピなど明文化されたものは、一切ありません。材料の分量も味付けも、すべて母の体と記憶にストックされていたのです。それでも毎日母は同じ味を作り出せるのですから、本当にすごいことなのですが。

 

あるときから、母がつくる餃子を横で手伝いながら、何をどれだけ入れているのか、軽量することにしました。それを何十回繰り返しましたが、面白いもので、肉や野菜の量はもちろん、調味料の分量まで、毎回ほぼ同じ量だったことがわかりました。それを私が書き留め、もう一度再現。それを母に試食してもらい−―これも面白いことに、同じ分量でも母の味と微妙に異なるもので−―味の足し引きを指示してもらい、最終的なレシピとしてまとめました。餃子ひとつの大きさは、18〜20グラム。従業員みんながそれを体得するまで、都度つくったものを計測しながら、ブレることなく作れるようになるまで、1ヶ月ほどかかりました。

 

そのころ、朝の情報番組『よ〜いドン!』(関西テレビ)の人気コーナー「本日のオススメさん」で、楽仙樓の水餃子が紹介されました。2011年1月のことでした。その直後から問い合わせが殺到し、店内では電話対応に追われることになりました。テレビの影響はやはり大きいものです。

 

問い合わせ電話の多くは「地方発送してほしい」「通販はやっていないのか」といったものでした。スタッフみんなで餃子をつくるようになったころから、通販のことは考え始めてはいましたが、まだその体制は整っていませんでした。いつかは、やらなきゃならない通販。そのために必要なことは。やるべきことは。

 

2013年になって、カタログ通販の「阪急キッチンエール関西」に取り上げたいという話があり、地方発送の準備は一気に進みました。

 

きっかけは、古くから店に通ってくださっていた関谷江里さん(京都の食に詳しいフリーエディター)が、自身のおすすめとして紹介したいということでした。しかも、表紙で! 関西の方ならキッチンエールがどれほどの波及効果があるか、知っている人も多いと思います。でも、カタログの発売は2か月後。時間はないけれど、地方発送を始めるのにこれほどベストなタイミングはありません。

 

何を準備して、どう始めたらいいのか、まず保健所に連絡をして、イチから教えてもらいました。一般的な通信通販に必要な申請、商品に必要な表示を細かく聞き、基本的なカロリー表示さえも手付かずだったので、やることはたくさん。原材料(産地も)をすべて書き出し、栄養成分表示をして、賞味期限を設定して。

 

カロリー計算、成分表示など、外注してやってもらうこともできますが、できるだけ準備資金は節約したかったので、勉強しながら自分で算出する方法を覚えました。通販用のボックスを安くまとめ買いして、そこに貼るラベルも家庭用プリンターで簡易印刷してここでもコスト削減。配送業者は知り合いを通して、冷凍品でもできるだけ送料を抑えてもらえるよう交渉しました。

 

「阪急キッチンエール関西」の配布とともに、水餃子の注文は殺到し、あっという間に1000セット(1セット10個入り)もの注文が入りました。これは誰にとっても予想以上の売れ行きで、すぐにリピート購入もありました。

 

初のキッチンエール関西掲載カタログ

 

というのも、水餃子はもともと、皮のもちっと感を保つために、つくってすぐに冷凍する方法をとってきました。だから保存料も使わないし、素材の味も劣化せずに済みます。その状態のまま発送して、家庭で食べるときにはお湯に通すだけで皮のもちっと感は蘇るし、難しい調理の手間もいりません。今さらながら、母の水餃子は冷凍&発送という方法に向いていたのだと気づかされたのです。

 

朝から晩まで、母も加わってずっと水餃子をつくり、発送し、またつくって。どれだけつくってもすぐ足りなくなってしまうほどでした。

 

ECサイトを開始

短期間での1000セット販売は、今でも最高記録です。その後、2015年には楽仙樓オリジナルの通販サイトも立ち上げました。

 

相変わらず餃子はすべての工程が手づくりでした。母は週3日だけ出勤して、餃子づくりを手伝いますが、かつてのように長時間働くことはできません。機械化すれば効率もよくなるし、たくさんつくれるんじゃないかと思って、リサーチをしたこともありました。が、やはり全行程を機械化するのは難しく、皮で餡を包むのは人の手でやるしかありません。材料を細かく切ったり混ぜたりする工程だけ機械化し、それは今も続いています。

 

そのころ、私の中にはひとつの思いが湧き上がっていました。

「いつか水餃子の工場をつくりたい」

 

冷凍の水餃子の通信販売が好調だったということもあり、また百貨店への出店(期間限定のフェアなど)も増えてきて、店頭だけでない別チャネルを伸ばしていきたいという思いが強くなったのです。もちろん、主力商品は水餃子です。それに対応するために、まずは店の近くに工房となる物件を探し始めました。すぐには見つからないだろうとわかっていましたから、コツコツと。街を歩きながらいい物件を見つけたら電話して、内見して。それを繰り返しながら、私は自分の夢が大きくなっていくワクワク感でいっぱいでした。

 

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楽仙樓の歴史⑪「母の骨折と閉店のピンチ」
楽仙樓の歴史

楽仙樓の歴史⑪「母の骨折と閉店のピンチ」

投稿者 三原伸子

育児との両立 2010年に店を継いでから、1年以上かけて汚れを落とし、効率化や「メニューの見直しをした結果、売り上げは順調に伸びていきました。来客も売り上げも、毎年「過去最高」を更新していきました。知人たちが貸してくれた母の手術代も、店の運転資金も、すべて返すことができて、なんとか通常運転ができるようになったのが、2018年でした。   その期間は、改めて店の基盤作りをしたときでしたが、私個人では、育児との両立で苦労した時期でもありました。   店を継ぐ前、まだ会社員との二足の草鞋でやっていたころ、両親や夫の力を借りて育児をしていたときも、もちろん大変でした。店を継いでからは、今まで母ができていなかった仕事――事務的な作業や仕入れなども私の業務として加わります。そのうえ、大阪の家から京都の店との行き来もあり、いつも時間に追われている感覚でした。私たち夫婦は、ふたりが会社員だったときにローンを組み、東大阪に家を建てていました。間取りから内装まで、こだわって作った家でしたが、子どもが増えて手狭になったこともあり、店を継いで3年後に、少しでも京都に近い枚方に別の家を購入しました。   私の1日は、子どもを学校に送っていくことから始まります。そのころ、ふたりめの子ども(息子)はまだ保育園児でした。その後、8時には車で東大阪の家を出て、店に向かう途中の業務スーパーで、野菜など買い出し。店に着いたらすぐ開店の準備をして、ランチタイムには店頭でサービスをしたり、お弁当を売ったりします。ランチタイムが終わったら、お金の管理や伝票の整理。仕入れ先とのやり取りをしたり、売り上げアップのための策を練ったり。17時には京都の店を出られれば早いほうで、帰り道も2時間運転をして、いつも着くのは19時ぎりぎりでした。   往復の時間は短縮したかったけれど、高速道路を使うようになったのは、お店が黒字になってからでした。それまでは、小さな出費でも抑えたかったのです。   料理人交代 店を継いで、なんとかうまく回るようになった2012年、今度はある出来事が起こりました。料理人として働いていた母が、テラスで転倒して怪我をしてしまったのです。   それはランチの準備中でした。すぐに病院に行くように言ったものの、「ランチタイムやから」そのまま働くと言い張ります。私はすぐにでも店を閉めたほうがいいと思ったのですが、母は聞きません。結局、その日のランチタイムは高めの椅子に腰をかけて、厨房の仕事を続けました。   夜になって、仕事を終えた父が迎えに来て、車で病院に連れて行ったところ、脚の付け根の骨折がわかり、それから1か月入院することに。病院に行くまでの時間、ものすごく痛かっただろうに、仕事に穴をあけてはならないと、ランチタイムを乗り切った母の精神力には、頭が上がりません。でも、母にしてみれば、痛みを堪えて仕事をするよりも、仕事を休むことのほうが、きっと辛いことなのでしょう。   店の料理を作る母が1か月も休むとなったら、もう店は閉めるしかないのか。もしかしたら楽仙樓は終わってしまうのか、と目の前は真っ暗になりました。それでも家賃は払わなければならないし、従業員の給料だってある。そして何よりお店の料理を楽しみにしてくれているお客様がいる。そう思うと、お店をやめるわけにはいかないと、すぐに思い直し、従業員を集めて対策会議をしました。そして、母が日本に来るときの手紙の一節を改めて思い出していました。   「一切の困難を克服する覚悟です」   今度は、私がその覚悟をする番です。さて、母が担当していた調理を誰が代わりにやるか。そこで手をあげてくれたのが、以前母と一緒に厨房で手伝ってくれたことのある女性でした。彼女の得意料理は点心でしたが、母の手伝いをしながら楽仙樓の料理を覚え、主なものは作ることができました。私たちほかのスタッフも、味の面では信頼を寄せていました。ただ、母のようなものすごいスピードでたくさんの料理をつくるのは難しい。そこで、ランチのメニュー数を絞ったり、効率よく作ることができる「チャーハンと水餃子」のセットを始めたりしたのです。これが、後のランチタイムの主力メニューになったことは、すでに紹介したとおりです。   そして、彼女の夫・賀さん――当時はまだ別のレストランで働いていました――が、後に母の跡を継いで、楽仙樓のメインの料理人となります。骨折の治療を終えて店に復帰した母でしたが、やはり以前と同じペースで働くことはできません。もちろん本人は、「大丈夫や」と言い続けるけれど、以前のように長時間厨房に立つのは辛そうです。それを見かねた私が、レストランで働いていたその料理人を引き抜き、店の主力として加わってもらったのです。...

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楽仙樓の歴史⑩「店舗の改革」
楽仙樓の歴史

楽仙樓の歴史⑩「店舗の改革」

投稿者 三原伸子

メニューを見直し 店のテラスがきれいになって、店内も厨房も明るく清潔になると、お客さまも入りやすくなったのか、店は活気を取り戻しました。これまでの常連さんに加え、店の前を通った人の目に止まって入って来たり、そこからさらに口コミで広がったりして、掃除の疲れも吹き飛ぶうれしさでした。お金をかけて大きなリニューアルをしたわけではないけれど、この場所で16年蓄積された汚れを落とし、自分たちの手でコツコツと磨き、新しい空気を吹き込めば、店も息を吹き返すのだとわかりました。   さらに、メニューをわかりやすく作り直して外から見えるようにしたり、店先でお弁当販売も始めました。このお弁当が周辺で働く人たちに大人気を博し、ランチタイムだけで1日80個ほど売れるようになったのです。   また、以前は「コース」というと母の「お任せ」で、その日によって作るものが変わっていました。常連さんならまだしも、新しいお客さんにとっては頼みにくい。そこで、内容の異なる2〜3種類のコースをつくり、内容も明確にメニューに提示することにしました。   ドリンクの種類も少なかったので、定番のドリンクのほかにカクテルなども増やして、お客さまの好みで選べるようにそろえました。ただ、カクテルとなるとカタカナのメニュー表記が多くなり、中国人のスタッフにしてみると読みにくい。漢字は読めてもカタカナはとても難関なのです。そこで、メニューにあるお酒ひとつずつに番号をつけ、注文時に間違えないようにしました。カクテルのレシピも、使うお酒を番号でわかるようにして、キッチンにあるお酒の瓶にも同じ番号をつけておけば、誰でも間違いなく作ることができます。   ドリンクが増えれば飲み放題のコースを作ることができますし、そうすると宴会として利用してくださるお客さまも増えます。宴会利用は、大きな売り上げアップにつながりました。   味へのこだわりと効率化 もちろん、味にもこだわりました。母がひとりで料理をこなしていたときは、ごはんを炊くのも料理の味つけも、長年の「勘」に頼っていました。それがうまくいく時があれば、いかない日もある。ましてや、別の人が代わりに作る日は、母とは違った味になってしまうこともある。   チャーハンの美味しさを決めるごはんは、母の「勘」ではなく、誰がやっても同じように美味しく炊けるように工夫しました。お米屋さんから納入してもらう時点で、これまでより小さい5キロ袋にしてもらい、それを一度に炊くことにして、水の量も決めておけば、毎回ブレることはありません。大袋で買っていたときのように、毎回計量する手間も省けます。   お米は、チャーハンに適したものをいくつも食べ比べて、その中から滋賀県産のキヌヒカリという品種を使っています。一般には美味しいとわれるコシヒカリなどは、粘りが強くてチャーハンには向かないので、炒めたときに程よくパラっとなるものが理想的なのです。   口コミサイトなどで「ご飯が美味しい」というコメントが増えていったのは、その後からです。   餃子の提供のかたちも、少しずつ変わっていきました。ランチのいちばん人気は「チャーハンと水餃子」のセットですが、それ以外のランチメニューにも名物の水餃子をつけていました。でも、忙しいランチタイムでは、提供する料理に合わせて、あらかじめ茹でておいた餃子を温め直すという方法を取らざるを得ません。食べるまでに少しでも時間が経つと、ふやけたり伸びたりして、美味しさは半減してしまいます。つるんとした餃子の皮が自慢の楽仙樓なのに、これでいいのか。長い間頭を悩ませていたことでしたが、中途半端なものを提供するくらいならと、「チャーハンと水餃子」セット以外は、セットに餃子をつけるのをやめました。その代わり、プラス160円(現在は250円)で茹でたての水餃子2個をオーダーできるようにしたのです。   ランチタイムは、4人がけのテーブルを2人ずつ×2つに変更するなどして、多くのお客様が入るように、さらにスタッフが動きやすくなるように、変更もしました。   こうしたすべての改革は、私の力だけではとうてい叶うことではなく、家族や従業員の協力はもちろん、かつて働いていた会社とのご縁も大きく働きました。...

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