コロナ禍でのテイクアウト需要
2018年のリニューアルを機に、これまでになく順調に売り上げを伸ばしてきた楽仙樓ですが、その勢いも2020年3月まででした。新型コロナウイルス拡大にともない、店を閉めざるをおえなくなったのです。
京都ミライマツリの売り上げから従業員にボーナスを支給し、みんなの士気も上がり、店の雰囲気もこれまでになく活気にあふれていたのに、たちまち給料を払うこともままならない状況に。リニューアルのために借入れた3000万円の返済も待ってはくれません。それでも、従業員の給料を減らすことは絶対にしたくありませんでした。
さらにそのころ、店のリニューアルに合わせ、店と別に事務所として一軒の町屋を改装して借りていました。その費用500万円を商工会議所の融資でまかなっていたので、その返済もしなくてはなりません。
町家事務所
従業員の給料を止めることはしたくありませんでした。緊急事態宣言になってからも、これまでどおりの給料を払い、店が再開したときにはすぐまた働きだせるように結束をゆるめないようにしていました。
ただ、この状況が長引けば、それもできなくなってしまう。コロナ禍の先行きはまったく見えないものの、緊急事態宣言とほぼ同時に、政策金融公庫に追加融資を依頼しました。私としては、ほかの借入れもあるし、借りられても500万円くらいかなと思っていたら、公庫の担当者は「まだこの先どうなるかわからへんから」と言って、3000万円を貸付けてくれました。
正直いって、コロナの状況がわからないなか、さらなる借金をかかえることは、とても不安でした。でも、このときの行動も、「すぐに動かなきゃ」と、何かが私の背中を押していたように思います。コロナにともなう融資の相談は、私がいちばん早かったらしいです。出遅れていたら、融資の相談が殺到して、数カ月待ちの状態になっていたし、果たして借りられたかどうかも、わかりません。
店を閉めていたころ、助けになったのはテイクアウト需要でした。土日だけテイクアウト窓口を開け、近隣に住むお客さんに向けてSNSで告知をして。外食ができなくても、いつもの楽仙樓の味を求めてくださるお客さんが、たくさんいることを実感できて、ほんとうにうれしかった。これまで以上に、お弁当やお惣菜をつくることができるうれしさを、かみしめる毎日でした。
時短営業
工房オープンで起こった奇跡
コロナによるダメージは大きなものでしたが、同時に私は、以前から考えていた工房づくりに向けて、動き出していました。店舗とは別に、水餃子と惣菜の外販(百貨店やイベントでの出店販売など)を強化したいと考えていて、そのための工場が必要だったのです。
コロナの影響ですべてが停滞してしまっても、あきらめきれず、大規模な工場は無理でも、なにか別の方法はないかと考えていました。物件を探してみたりもしましたが、いまひとつコレといったものに出合えない…と思っていたころ、街を歩きながら、あるパフェのお店が目につきました。店から近かったので、パフェの店に入ったこともありました。その店が、コロナ禍になってからシャッターがしまった状態で、いい場所でいい物件なのにもったいないなあと思っていたら…。
ある日、またその店の前を通ったら「貸出し物件」という紙が貼ってあるではないですか。私は事務所に着くなり、すぐに張り紙の問い合わせ先に電話をして、内見したいと伝えました。その翌日、実際に内見したときに鳥肌が立ったことは、今でもはっきり覚えています。絶対にここを借りたい。何がなんでもここで工房をやりたい。
不動産会社の担当にもそう話しましたが、私より先に3軒も希望者がいるということでした。京都大丸からほど近い場所で、道は狭いながらも人通りが多く、外食店もつらなっているエリアですから、希望者が多いのは納得です。また、間口はそれほど広くなくても、奥に向かって細長く続く間取りは、工房としては申し分ないつくりでした。それだけに、私は「どうしても借りたい」という思いがいっそう強くなって。さらに、楽仙樓の店舗がすぐ近くにあるので「この場所でなければ」ダメだということを強く訴えました。
この訴えがよかったのか、物件の持ち主は、保証会社をつけることを条件に、借り主として私を選んでくれました。ただ、いざ保証会社の審査を受ける段階になると、すでに計6000万円もの借入れがあることがネックになって、審査が通りません。
となれば、自分のツテを頼って、保証人をつけなければなりません。このとき助けてくれたのが、父の古くからの知人で、お店にもよく通ってくれていた方でした。工房を借りたいけれど保証人が見つからないと相談すると、快く引き受けてくれたのです。
4月に物件と出会い、いろいろあってようやく契約できたのが6月末。そこから急ピッチで改装工事を始めましたが、まだコロナ禍ですから、さまざまなものごとが遅れがちです。物件は、入り口のところにお弁当やお惣菜を売るスペース、その奥に事務所と工房というつくりです。特に工房は什器や餃子づくりの機械などを新調する必要があり、どう考えても2〜3カ月はかかるというのが当初の見立てでした。でも、私はどういうわけかこのときも、「早くしなきゃ」と気持ちは焦っていました。中国ではラッキーな数字にあたる「8」にちなんで、8月1日にオープンしたいと考えていたのです。
私の希望に合わせて工事も急ピッチで進み、本当に8月1日にオープンできると決まったときは、「なんとかなるもんや!」と思ったのと同時に、ものすごい奇跡も感じました。8月1日というのは、母が27 年前に店を始めた日だったのです。さらに奇跡は続きます。
母が店を始めたのは、46歳のとき。そしてこの年私も46歳。母に言われて気づきました。ただの偶然ではなく、引き寄せられるようにして、工房のオープンまでなんとかこぎつけた。まだコロナ禍ではあったけれど、不思議と未来は明るく感じたものです。